抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

沖縄とアメリカ

翁長元沖縄県知事が無くなったのが去年の8月。彼の死から来月で半年を迎えるかと思うと、時の流れの速さを感じる。彼が取り戻そうとした沖縄の平和は果たしていつ達成されるのだろうか。戦後から続く沖縄の痛みを叙述する。


戦後日本は「平和と繁栄」を謳歌してきたと言われる。それは、親米路線が長年にわたり安定的に追及された結果だと親米保守派は主張する。他方、リベラル左派の間では、憲法9条の平和主義により実現されたと考えられている。確かに戦争をしなかったという意味では「平和」は維持されたと言えるだろう。しかし全国総人口に占める人口の割合が1%の沖縄は、戦争終結から30年近くもの間、軍事的要請が全てに優越し、平然と人権を蹂躙する支配のもとに置かれ続けた。本土が「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を国是と定める一方、米軍統治下の沖縄は、核戦略の重要拠点に指定され、ピーク時には1000発を超える核弾頭が持ち込まれた。アメリカは自国の核兵器がどこにあるかを明らかにしない方針を採っているが、現在でも在沖縄米軍基地には、核兵器そのものか、少なくとも核兵器の運用施設があることは確かであろう。要するに、非核三原則は沖縄を対象としていないというのだ。


「繁栄」という言葉にも触れたい。戦後日本の経済発展を支えた吉田ドクトリンは、沖縄に巨大な米軍基地を置くことで可能になった。かつ、本土が重化学工業を基軸とする先進工業化に成功する一方、米軍統治下の沖縄は産業の内発的発展を阻害され、基地依存経済が構造化されたのであった。「平和」と「繁栄」が戦後レジームの壮観な外観である一方、その成立のためには、例外としての「平和と繁栄」を完全に欠いた空間を必要としてきた。この意味において、戦後レジームにとっての沖縄とは「構成的外部」に他ならない。構成的外部とは、あるシステムが自律的に成立するために、システムの外へと排除したものを指す。日本の平和と繁栄のために、沖縄は犠牲になったのだ。


今日、名護市辺野古での米軍基地建設をめぐり沖縄の我慢が限界を超えたいま、どのような政治的立場であれ、戦後という時代を「平和と繁栄」と安易に特徴づけるのは嘘になる。後述するが、日米安保体制と9条平和主義は、漠然とした意味においてではなく、政治的事実を明確にたどれる形で密接に繋がっている。別言すればそれは同一物の二側面である。この同一物とはなんであるかを把握することが本稿の目的であり、その上で、沖縄で顕在化している戦後レジームの危機の本質を掴むことができると考えている。


太田出版「永続敗戦論」で著者である白井氏は、先の大戦での大日本帝国の敗北が持つ意味を曖昧にした歴史認識を問題提起している。かかる歴史意識は「敗戦」を「終戦」と呼び換えられて流通していることに現れているが、戦後日本人は「敗北を否認」してきた。これを可能にした最大の要素こそ、戦後の「親米」の名を借りた対米従属であった。統制対立の世界で、アジアにおけるアメリカの最重要パートナーに収まることで、比較的速やかな復興をはじめ、戦後日本は敗戦の意味を矮小化することができた。しかし、その幸福の代償が今、政治と社会の歪みとして全面的に露呈してきた。「敗戦の否認」という認識は、戦後民主主義を表層的にとどめた一方、成長し続ける経済という戦後日本の繁栄の前提は東西対立の終焉と同時期に崩壊した。そこで現れたのが、敗戦の結果もたらされた戦後民主主義的価値観に対する不満の鬱積であり、それがポツダム宣言を詳らかに読んだことがないまま戦後レジームからの脱却を唱えるという、奇行に及んでいる宰相に支持を与えている。その行き着く先はなんらかの形での「第二の敗戦」である他ない。敗戦を正面から受け止めないためにダラダラと負け続ける、これが「永続敗戦」なのである。


ある国家が超大国に従属していること自体はありふれた現象だが、戦後日本の対米従属は、従属の事実がぼやかされたという点に、重要な特徴がある。そこには対米従属は対米戦敗北の直接的帰結であるが、敗戦を否認するためには、その帰結をも否認しなければならないという構造的な動機がある。


ここで考察されるべきは、戦後の国体の形成とその歩み、そしてその崩壊において、沖縄がどのような役割を振られたのか、という問題である。


45年のポツダム宣言受諾に際して、当時の国家指導部が最後までこだわったのが降伏の条件が「国体護持の保障」であったことはよく知られているが、その事実はなんであったのか。敗戦と領土改革の時期における「国体護持の行方」は、昭和天皇の戦争責任の不問と象徴天皇制の導入によって決着された、と一般的には受け止められている。だが、連合国の視点で考えると、事柄は単純ではない。「万世一系天皇が永久に統治する日本国独自の国家のあり方」という国体概念は、第三者の視点から見て、戦時中の日本のあり方と重ね合わせると、「天皇という君主を頂点に戴く、極端な軍事主義専制国」を意味した。故にGHQの五代改革司令(婦人の解放、労働組合の助長、教育の自由主義化、圧制的諸制度の撤廃、経済の民主化)に代表されるように、国体における天皇ファシズム的要素の撤廃を戦後日本は強制されることとなった。


こうした改革が一定の成果を収めた、つまり国家の在り方が変革されたという対外的評価を得ることができてはじめて、戦後日本の国際社会への復帰が許されたのである。そうでなければ、戦後ドイツがナチス第三帝国であるがまま国際社会に復帰するのと同じであって、そのような事態は到底あり得なかった。したがって「国家の在り方」という意味での国体は、面目を一新したのであり、国体が護持されたとは到底言えないのだ。マッカーサーが米政府内での「天皇の責任を問うべし」という圧力を頑固たる決意で押し返した極端な理由は、天皇を攻撃するよりも、天皇を活用した方が円滑な占領統治に有益であるという判断からであった。


ここに深刻な矛盾が発生する。第二次世界大戦後のアメリカは、主要なものだけでも、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争と、ほぼ間断なく戦争を続けてきた。そして、これらの戦争が、日米安保条約に基づく大規模な基地の提供なしに遂行できなかったことは明白である。つまり、矛盾とは、日本は一方で戦争をしないという「平和国家」の看板を掲げつつ、同時に他方で、常になんらかの戦争を闘っている国家の、その戦争遂行にとって不可欠な援助者であるという事実にある。この矛盾はベトナム戦争当時までは、本土の日本人にとっても意識されていた。だからこそ、ベトナム反戦運動は高揚し、運動は社会の好意的な視線によって支えられていた。しかしその後、矛盾は覆い隠されて意識されなくなった。この矛盾を覆い隠す役割を背負わされたのが沖縄であった。


アメリカが凄惨な地上戦の果てに占領した沖縄は、サンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復されたがゆえに、国際法的に極めて曖昧な、極度の無権利状態に置かれるようになった。サンフランシスコ講和条約は、沖縄に対する日本の「潜在主権」を認めつつ、統治の実権は全面的にアメリカに帰せられたからだ。同時にアメリカは「いかなる領土の変更も欲しない」と宣言した大西洋憲章以来の無併合の大方針に拘束されており、沖縄を一時的にであれ併合するわけにはいかなかったため、沖縄は国際法的に定義困難な地位に留め置かれた。その結果、沖縄は、日本の領土でもなければアメリカ領でもなく、故に両国の憲法が規定する人権保障がいずれも機能しないがために、軍事的要請が制約なしに貫徹される空間と化した。その具体的表れが「銃剣とブルドーザー」による軍用地の強制収用であった。


かかる明白な人権蹂躙をアメリカはいつまで続けるつもりだったのか。答えは「無期限」である。53年に、時の国務長官であったダレスは、「極東に脅威と緊張の状態が在する限りアメリカは琉球諸島に対する統治権を行使し続ける」と宣言した。この宣言は「ブルースカイ・ポリシー」と呼ばれ、一点の曇りもなく空が青くなるまで沖縄は返還されないことを意味した。「極東に脅威と緊張の状態が在する」か否かを判断するのは、もちろんアメリカである。


それでも72年に沖縄返還が実現するのは、日本の本土および沖縄での復帰要求の高まりであった。かくして、施政権の実現は一応実現した。そして、敗戦から現在に至るまで、沖縄をめぐる日米交渉の歴史は、沖縄における軍事的フリーハンドを手放したくないアメリカ側の意思と、沖縄を文字通り取り戻そうとする日本側の意思の衝突の過程であるかのように一見思われる。しかし、それは外観にすぎない。事実として、米軍による沖縄支配に終止符を打つために、日本外交があらゆる手段を動員したことはないのだ。


このような、自発的な従属の実態、従属の事実を否認する従属の虚構性は、沖縄の現実において暴きだされる。米軍絡みの事件事故の頻発に対して実効的対策が一向に取られないのは、日米地位協定の不平等さ故であり、かかる不平等条約による支配に日本国民が服している現実は、沖縄では覆い隠せない。だが、逆に言えば、本土の多くの米軍基地が沖縄に移されたことによって、この虚構は本土では現実として通用する。「戦争と絶縁した平和主義の日本」という虚構と「世界最強の軍事主義国家の援助者」という現実は「アメリカに愛されているのであって従属していない本土」と「アメリカによって力づくで支配されている沖縄」という形で空間上に転態されているのである。


この構造が固定され変わらない理由の一つが「差別」であろう。ここでは、第二の理由として、このような戦後沖縄の状態を作り出した経緯の一端を昭和天皇がになったことの意味を指摘したい。昭和天皇日米安保条約締結を働きかけたのみならず、47年に「天皇メッセージ」をアメリカに伝え、米軍により沖縄占領を50年間よりもさらに長く継続させることを希望する意思を表した。天皇の考えでは、国体を護持するためには、平和主義の国是と同時に、共産主義の脅威に対抗するための国土の要塞化が必要だったのである。この矛盾を解消すべく指定されたのが、「日本ではなくアメリカのものでもない」沖縄であった。「天皇メッセージ」がどれほどの政治的実効性を持っていたかについては、まだ十分に解明されていない。ただし、その直接的効力よりも重要なのは、昭和天皇の考え方が戦後日本の統治エリート集団の全般的な意志とシンクロし、一般化していった点にある。この事情を踏まえると、とにもかくにも施政権が返還され、東西対立も終焉し、日米間の国力格差も戦後直後とは全く異なった状況になったにもかかわらず、沖縄を不変の構造に押し込め続けている無意識化された動機に、我々は直面する。つまりそれは「昭和天皇がお決めになったことだから、変更できない」ということではないか。


今、戦後の国体は明白に崩れ始めている。天皇陛下のように日本を愛してくれるアメリカという幻想は、東西対立にその根拠があった。アメリカは日本をアジアにおける最重要の同盟国とみなして、恩恵を授けた。しかし、東西対立の時代はとうに終焉を迎えた。にもかかわらず、対米従属の合理性が失われた時代においてこそ、親米保守派が支配する戦後レジームの対米従属姿勢は、より露骨なものとなってしまった。もはや存続不可能になったレジームの終焉を無期延期することで自己保身しようとする、統治エリートの身勝手な努力が安倍政権として結晶している。かくして45年に愚行と欺瞞の果てに国体が一度崩壊したのと同時に、戦後の国体もまた、統治の破綻という形で崩壊の道を歩んでいる。


そうした状況下で戦後の国体の構成的外部としての沖縄から発せられた声は、今日の日本の政治状況の本質を突くものであり、故翁長知事の発言は、的確な戦後レジーム批判として現れた。「事件事故が相次いでいても、日本政府も米軍も無関心なままでいる。日本政府はアメリカに必要以上に寄り添う中で、一つ一つの事柄に異を唱えるということができていない」、

安倍総理が日本を取り戻すという風におっしゃいましたが、私からすると、取り戻す日本の中に沖縄は入っているんだろうかなというのが、率直な疑問です」、「戦後レジームからの脱却とよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしている」。


本土の日本人が安倍政権に支持を与えてきたことはこれらの指摘を却下してきたということであり、戦後の国体を依然として支持しているということでもある。しかし、いまオール沖縄が戦いを挑んでいる「戦後の国体」とは、本来は、現レジームの特権階級の構成員を除く全ての日本人にとって、打倒すべき敵なのである。翁長氏がいない2019年、我々一人一人が沖縄を守らなければならない。

 

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