抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

民主主義が終わりを迎える日

 

二月に行われた沖縄県民の民意を問う県民投票では辺野古移設反対が71%となった。憲法九五条には、地方自治体への特別法の制定には、住民の過半数の同意が必要だと定めている。この条文の精神に照らして、県民投票の結果を無視し移設工事を強行するのは違憲ではないかと指摘する声もある。しかし、政府の姿勢は変わらない。それはなぜだろうか。そこで思い出すのはニーメラーの警句だ。ナチスドイツによる迫害を生き延びた人が後世に伝えたかった言葉である。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声を上げなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃した時、私のために声を上げる者はいなかった」という言葉である。

 

日本の内地に住む住民は沖縄の事実だから米軍基地とは関係ないから他人事にはしていないだろうか。沖縄の声に対して、自らのことだったらという想像力を働かせず、思考停止していないだろうか。それが、国民の間に分断を生み、その分断につけ込んで強権政治がはびこっているのではないか。沖縄だけではない。福島原発の除染処理で発生した放射線物質やトリチウム水の問題は福島だけの問題だろうか。報道規制は望月記者だけの問題だろうか。高騰する大学授業料は学生だけの問題だろうか。一部の当事者だけが直面している問題は多い。そうした問題に対し、当事者のみではない人間が声を上げていくことが、強権手法をはびこらせない対抗策ではないだろうか。そうしないと自分が当事者になった時、ともに立ち上がる人は誰もいなくなってしまう。

 

問題から目をそらさせるような報道ばかりが行われているとしても、昨今の移ろいやすい国民性には危うい思いを禁じ得ない。

 

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