抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

社会の連帯を強める

 

 東日本大震災で日本が揺れていた2011年、遠く離れた北欧のノルウェーでは国内史上最悪の惨事だと言われる連続テロ事件が起こった。77人を殺した犯人に対して裁判所が下した判決は、禁錮21年であった。この国には死刑制度はない。この事件を受けて、国内では一時死刑制度の復活も検討されたが、実現には至らなかった。

 

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 ノルウェーには世界一豪華な刑務所として名高いバストイ刑務所がある。この刑務所には強姦や殺人などの重大犯罪者が収容されているが周囲には塀がない。刑務所内には、綺麗な個室が準備され、十分な広さがある図書館では囚人が自由に読書をし、外では大きな運動場でスポーツをする受刑者の姿が日本のメディアでも幾度となく取り上げられた。ノルウェーでは大量殺傷事件のように、社会や人々への不信が強まり、誰かを排除しようとする動きが起こるたびに、王室や政府、メディア、一人一人が社会を信頼し、同じ国内で暮らす人々を信じて連帯することの意義を強調して支え合ってきた。

 

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 翻って日本はどうか。令和に入り起きた事件の記憶は鮮明だ。その度に聞こえてくるのは「死にたいなら一人で死ねばいい」という言葉だ。テレビという公共の電波を使い、「ひとりで死んで」発言をしたキャスターや落語家を6月1日の朝日新聞が俎上に載せている。それらの発言に対して警鐘を鳴らす人たちも稀にみられた。ただそうした声はあまりにも少なかった。多くの人たちが「他人を殺して自殺するならひとりで死ぬべきだ」という意見を持っていた。その中では、少数派の意見はすぐに掻き消された。

 2016年に起きた相模原障害者無差別殺傷事件でも犯行動機には「障害者は生きてはいけない存在」として一方的に決めつける思想があった。この「死んだ方がよい人間」が社会に存在しているかのごとき思想は、極めて危険であり、その芽の段階から摘んでおかなければ大事件に発展しかねない。元農林水産事務次官の男性が実の息子を殺害した際、「このままでは息子が危害を加えると思った。殺しておかなければならない」と述べた。事件の4日前に川崎市の路上で19人が殺傷される事件が起こった。男性は自分の息子が二の舞になると考えたのである。ここでも「死んでおくべき存在」という言葉が全国を駆け巡った。

 

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 自民党の杉田衆議院議員は性的マイノリティーに対し、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と差別発言を述べている。子どもの有無が生産性の有無なのか、意味が取れない。要するに、マジョリティーの価値観が正義だということなのだろう。価値がある人間と、価値がない人間の両方が存在しているかのように思わせる。「ひとりで死ぬべきだ」というメッセージにも同様のメッセージ性がある。犯人に対して述べられていると言っても、中にはその言葉によって絶望を深め、自殺に誘導されてしまう人もいるのではないだろうか。あるいは、危機感から周りの人間を殺してしまう人もいるのではないだろうか。元農林水産事務次官の事件は、そうしたことを想起させる。

 

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 何度も繰り返される、社会を分断し、相互不信感を強めるような言葉の数々に、即視感を覚えると同時に、辟易する気持ちを抑えられないでいる。

「ひとりで死ぬべきという非難は避けるべきだ」という意見に対するカウンターとして被害者遺族という存在を持ち込んでくる代弁者たちの言葉が溢れかえった。「きれいごとや理想論は自分が被害者になってから言え。被害者の気持ちを考えろ」という言葉である。被害者遺族は当然ながら強い言葉で犯行を非難することも、犯人に死んでほしいと思うことも自由である。むしろ、そうしなければならない時期がある。ただ、当事者である被害者遺族の感情を分かったふりをして、外部の人間が被害者遺族のことを代弁するかのように振る舞うことには違和感を覚える。当事者は、事件発生直後や混乱期には「ひとりで死ね」と同様の強い怒りの言葉を犯人や周囲に吐露するが、時間が経つに従って犯人を責めるよりも、その動機や背景を知りたいと思うようになる場合が多い。だからこそ、歪んだ正義感にとらわれた仮の被害者遺族の代弁者の言葉は真実だとは思えない。

 

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 要するに、「ひとりで死ね」ということは、被害者側に立ち、その声を代弁している正義の味方ではない。むしろ、事件を利用して叩く対象を探し、それらの言葉を吐く人々を同調し、マジョリティーのなかに自分を置きたい人々である。同調圧力の影響は大きく、メディアもその声を背景に発信方法を検討しなければならないから厄介だ。叩く対象を求め続ける歪んだ正義感に支配されないように、落ち着いた状態で話せる当事者の声を拡散することこそ、メディアの役割ではないだろうか。

 

 2000年に東京都世田谷区で起きた世田谷一家殺人事件で亡くなった宮澤泰子さんの姉である入江杏さんは以下のように述べる。

 

「犯罪により家族を喪った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて『死にたいならひとりで死ね』という言葉は『いかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されない』という理念を裏切ってしまう、と感じます。暴力や憎悪を助長させることなく、子供たちを守っていく責任を自覚したいです」。

さらに、「ひとりで死ねという言葉は、必ずしも犯罪被害者遺族の気持ちを代弁するものではないことを伝えることができた」と述べている。

 

2015年にパリで大規模なテロ事件が起きた時、フランスの人々は犯行を強く非難しつつも「私たちの社会が犯人を生み、事件を起こしてしまった」と捉えた。日本では、犯人やその家族、または行政にその責任を求める風潮が強い。つまり、あくまで自分たちではなく他者のみが悪いのである。ノルウェーやフランスのように、日本の社会システムをすぐに変更することはできない。彼らも失敗や議論を繰り返し、膨大な時間をかけながら成熟した民主社会、現行システムを確立してきたからだ。

 

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 社会に絶望した人が凶行を起こすことは非常に稀であるということは強調しておきたいが、その凶行を社会が振り返り、真摯に受け止めなければ同じような事件が繰り返されてしまう。実際には、日本では社会に絶望した人はひっそりと一人で命を絶ってしまうことが大半である。日本の自殺率も相変わらず高く、先進国の共通課題である。社会福祉学の分野では、全ての命が社会にとって意味がある、という原理を掲げている。いま、社会に居場所がない、生きづらいと感じている人たちは、社会の欠点を一番よくわかっているという視点でもある。だから彼らの声を聞くことは、より良い社会へと繋ぐ一歩になる。

 

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 皆が「ひとりで死ぬべきだ」と分断を煽るのではなく、皆で「理解し合おう」と連帯を強めた時、民主主義ははじめて意味をなす。