抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

国民意思の体現

 香港での情勢をポピュリズムという言葉を使って分析する記事を多くみかける。ポピュリズムという言葉は、ブレグジットアメリカ大統領選挙アメリカのみではなくフランスやイタリアの大統領選挙でも使用され、今年に入って、日本でも多用される言葉となリつつある。ポピュリズムと対比する言葉としてデモクラシーがある。近年の傾向として、デモクラシー=善いもの、ポピュリズム=悪いものというような図式が成り立っている。

 トランプの当選にしろ、ブレグジットにしろ、民主的な選挙の結果として、そうした選択がなされたのであり、それは人々の意思の体現なのであり、そうした帰結こそが「デモクラシー」そのものである。もちろん、その結果に納得せず、それとは別の意思を体現しようという人々も依然としているだろう。しかしながら、いかなる意思が体現されるべきかという争いに敗れた敗者は、たとえそれが自分のものとは異なる意思であっても、多数の人々が支持した意思をひとまずは受け入れる必要がある。民主的な方法に則って出された結果が民主的なものでなかったとしてもである。それがデモクラシーというものである。

 敗者の側が「あんなのはデモクラシーではない。ただのポピュリズムだ」というレッテル貼りを、あまつさえ「反知性主義」という言葉をわざわざ持ち出してまで行うとすれば、それはあくまで「真の人々の意思はそちらではなくこちらにある」と言っているのと同じことではないだろうか。かかる態度は、敗者はその結果を甘んじて受け入れるというデモクラシーの前提を切り崩してしまうだろう。

 デモクラシーにはもとより人々を多数派と少数派、勝者と敗者に分断する機能が備わっている。ゆえに民主主義が成立するためには、とりわけ少数派や敗者が、自らの意思とは異なる意思であってもそれをひとまず受け入れるということが極めて重要なことだと思う。その理由は、一つには、同じ公共の枠組みにおいて共に生活を営む仲間であるという連帯意識と、そこから派生する信頼感が人々の間に醸成されているからであるように思われる。同じ公共の枠組みの中で暮らしており、ある程度の方向性や利益が一致している者同士であれば、民主主義的手続きを経て結果的に敗者になったとしても、勝者を信頼し、勝者が自分たちのことを無下に扱うことはしないだろうと期待できるがゆえに、敗者は敗者を受け入れることができよう。

 重要なことは、人々の意思を基底に据えるという意味のポピュリズムをデモクラシーという政治体制において体現しようすれば、人々のあいだに分断や相違を越えるなんらかの連帯意識がなければならない、ということである。実のところナショナリズムが求められるということである。

 

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