抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

実に奇妙な判決であった

自分の息子を殺害した、元農林水産省事務次官に懲役六年の判決が下された。私にとっては二重の意味で予想外の判決であった。一つ目は意外と軽い判決であったという驚き。そして、二つ目は、この判決を受けてテレビやSNSで広がっている同情論である。中には執行猶予が望ましいという「爆論」も見受けられた。また、判決後、検事が被告に「体に気をつけてください」と異例の声かけを行ったことが大きく報じられた。
 一言で言えば、実に異様で、気持ちの悪いことだと思う。自己責任が国是の我が国で、かくも「犯罪者」への同情と共感が集まったのは、言うまでもなく息子の素行によるものだろう。発達障害という病名も前面に出され、社会参加を何度も失敗した果てに引きこもり、暴力が日常化していた被害者の生活の様子が、大々的に報じられている。
 被害者も周囲への殺意を表明しており、事件を未然に防ぐために息子を手にかけたのはやむを得なかった、実にドラマチックなストーリーである。私自身、自らならばどうしたかと我が身を振り返って考えさせられる点がないわけではない。しかし、刑事裁判となれば話は別だ。いかなる理由があれ、被害者を殺したことが正当化されるわけではない。正当防衛が認められる状況でもない。
 そもそも量刑が軽いこと自体が大きな疑問だ。殺されてもやむ得ないような人だと市民が思うのは勝手だが、司法が判断にそうした要素を加えるのは、明らかに法の本旨を踏み外している。殺人に至る筋書きがいた仕方なく、加害者が同情に足るからといって、それで量刑が左右されるのであれば、それは被害者の命の価値に差をつけることに他ならない。
 裁判員制度が導入された際、しばしばその理由として、「国民の理解しやすい裁判」のためだと言われた。しかし、理解しやすいというのは、通俗的な価値観におもねることではないはずだ。むしろ庶民の価値観と法曹の厳格な判断とにズレがあることを前提に、それを可視化することで、専門家の判断の論理や筋道が、素人でもわかるようなること。それが「理解しやすい裁判」の姿なのである。
 どこもかしこも、専門性が崩れ、安直な感情論が大手を振ってまかり通っている。入試改革しかり、消費税問題しかり、安全保障問題しかり。理性と科学に基づいて国家の指針を決定できる日が、果たしてこの国には来るのだろうか。

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