抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

正義とは

 オウム真理教の引き起こした事件で死刑判決を受けていた七人の刑が執行されて、早くも1年半が過ぎた。日本列島、とりわけ私の住む西日本では何年ぶりかの大雨による避難勧告や避難指示などが発令される中、一斉にこの日、それこそ何事もなかったかのように、あたかも正義を振りかざすように、死刑が執行された。麻原教祖に至ってはたった一審の審判により事件の真相が閉ざされた。今から100年前、旧刑法時代だが、たった一審による裁判にて大逆事件の判決が真理を始めてからわずか2週間ほど後に判決、そしてそれより6日、7日後にあっという間に刑が執行され、12人の命が抹殺された。果たして何のための三審制だったのか、法の精神が封じられた司法判断に、真相は未だ闇のままである。

 死刑執行に関して、当時はテレビなどではどの番組でもまるでショーのように映像が流され、まるで真相解明がなされていないことに異議を差し込む余地のない、残忍な犯罪者の末路と言わんばかりの扱いに見えた。朝日新聞によれば、フジテレビの企業広報室は次のようにこの番組について説明する。「13人の死刑確定囚がいる中で誰に対して死刑が執行されたかという非常に重要な情報を視聴者様の皆様にわかりやすく迅速にお伝えするもので、問題があるとは考えておりません」と。

 確定判決として、リアルな死刑執行を、より早く、よりリアルに、という競争のごとく扱うことにメディアの使命があるというのだろうか。勝ち誇ったかのような報道ぶりに、正義はそこにあるのかという疑念が拭えない。

 欧米諸国からは当時の死刑執行に対して、残忍で非人道的との批判の声が出された。まして、井上死刑囚は「生きて罪を償うことができますようにこれからもどうかよろしくお願いします」と、支援者に思いを伝えていた。また再審請求中でもあった。それにも関わらず、一斉の死刑執行ということへのこだわりか、死刑を執行した。

 私は大逆事件の真相解明は110年が経とうとしている今でもなされたとは思っていない。真相解明を求め、再審を願う全国各地の顕彰会の活動はますます大きくなりつつある。死刑執行の前夜、安倍首相ほか与党幹部は衆議院赤坂宿舎で宴席を用意し、死刑執行の直接の権限を持っている上川法務大臣も、出席者の一人だったという。

 そして一年も終わりを迎える12月26日、慣習化したかのように、福岡拘置所において魏巍死刑囚の死刑が執行された。人の生命を剥奪する権限を持つ人物の、死刑執行の決定は、正義の執行だったといえるのか。欧米諸国から提起された疑念に対して、胸を張って正義と言い切れるのか。私には、死刑執行は殺人と同じ行為に思え、心は痛めつけられて、その日は眠れぬ夜を過ごした。

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