抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

国連機関で働く私が転職を検討するに至った背景

 

 はじめまして。普段はこのブログを通じて”小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。私は、文字を介して自分の想いや熱量を伝えることが好きなので、過去の記事をいくつか読んでいただけますと、ある程度までは私の人物像をイメージできるのではないでしょうか。また、今回は「国連機関で働く筆者が転職を検討している理由」というテーマで筆を取りますが、所属機関を含む筆者の個人情報はあえて控えさせていただきます。少しでも詳細に、またリアルに、内部の人間が国連機関で働くという実相を伝えられるのではないかと考えた結果です。

 国連機関を「働く場」として見たとき、「働く上でのメリットとデメリット、理想と現実とが極めて極端な業界」だと筆者は感じています。その両方を叙述するには、あまりにも文字数が嵩んでしまうため、本稿では「デメリット」と「現実」とに軸足を置くことにします。人間はどうしても良い面ばかりを見て結論を出してしまう生き物なので、その対極に自分を置くことで俯瞰した視座を得ることができると考えます。

 本題に入る前に2つのことに予めご理解を願います。1つ目は、筆者は現在の職場に対して、総じて満足をしているということです。修士卒という身ながら私を受け入れていただいたこと、また、年齢(20代中盤)に関わらず裁量の大きいプロジェクトを任せていただいたこと、更には、利害関係を越えて建設的な議論ができる環境、良い面を挙げれば枚挙に暇がありません。本稿では良い面に関する主張はあえて枠から外し、別の機会に譲らせていただくことにします。

 2つ目は、本稿で述べる全ての主張は筆者自身の主張に帰属するものであり、所属機関の立場を代弁するものではありません。国連機関といえど、それは多くの該当機関があります。そして、それぞれの機関には世界各地で事務局があり、それぞれの事務局にはそれぞれのセクターがあり、そこにはそれぞれの職員が在籍しています。私の意見は、全体の中の1に過ぎません。以後、筆者の意見を主観的に述べていくことになりますが、読者の方にはそれぞれで噛み砕いていただき、「こういう意見もあるんだ」といった程度に留めておいていただけますと望外の喜びです。

 

 まず、筆者の簡単な経歴だけ参考程度にご紹介させていただきます。筆者は関西の田舎で生まれ育ちました。県内の高校に進学しましたが、講義式の授業が合わず教員と対峙し、1年の終りに通信制編入しました。その後、自身の経験から海外の教育環境を知りたいと思うようになり、高校3年生の時、半年間高校に休学申請を出した後、アジア、中東、欧州の国々を周る旅に出ました。渡航中に知り合ったアルゼンチン人の影響によりスペイン語を独学し、帰国後は残り1年間の高校生活の傍ら、近所で南米からの出稼ぎ労働者にスペイン語から日本語を教えるボランティアをしていました。ある日、同じくボランティアとして参加されていて以前までアメリカに住んでいた日本人の女性と仲良くなり、その女性の友人が日本に来るということでご紹介いただきました。彼女は当時世銀で上級顧問を務めており、修士号を3つ持っていました。「国連機関だと優秀な人がいるんだ」ということを知り、その日から国連機関で働くことを目指すようになりました。とはいえ、大学に入学をしても中身のある大学生活を送れる気がしなかったため、「国際協力の場合、産業は農業から始まる」という単純な考えでオーストラリアに農業留学をしました。現地では農業と日本の受験勉強を淡々とこなし、その結果2年遅れで大学に入学します。

 大学に入学し、1年の終わりに英検1級を取得。大学生2年の11月にはパリで開催されたUNESCO第38回の総会に職員の方からご招待いただき参加。滞在期間の最後にはパリの同時多発テロがあり、現地で惨劇を目の当たりにしました。2年の2月より、アフリカのとある国連機関事務局にて4ヶ月のインターンを経験、その後、草の根の活動に携わりたいという意志があり、7月にインドネシアにあるNGOにて3ヶ月のインターンを経験。大学では主に開発経済を学びました。

 その後、大学院に入学し、国連機関で働くという目標を実現させるために、国連での勤務の経験のある教員の下で、計量分析を学びました。Stata、SPSS、Rを使った分析も何度を何度も行い、ただひたすらに英語の文献を読む日々が続きました。修士2年になると周囲は就活を始めますが、私は日本の企業には合わないと認識していたので、ひたすら国連の空席ポストに応募するということを続けていました。「受からなかった場合、どうしていましたか?」という質問を受けそうなので予め回答しておきますと、博士号を取るつもりでした。指導教官からは、「大使館の専門調査員や青年海外協力隊だと君には緩いかもしれないけれけど、試しに受けてみる?」と助言を受けていましたが、私はなぜか自分が国連機関に受かるに値する人材だと思っていたので、恥ずかしながら働くなら国連機関(希望する機関と勤務地は決まっていましたが名前は伏せます)、無理なら博士課程に進学、と考えていました。大学院に入学してすぐに学費と生活費をやりくりするために個人事業主になりました。幸いなことに、院生時代には、月収で50-70万円を稼ぐことができました。ですので、博士課程に進学できる金銭的な問題はありませんでした。その後、運よくとある国連事務局から拾われたというのが就職に至るまでの経歴です。

 

実務可能言語:日本語、英語、インドネシア語スペイン語

日常会話レベル:トルコ語、中国語

スキル:Stata,SPSS,R, GIS

 

 さて、 高校時代の世銀の職員との出会いから約7年、ようやく国連機関に入るという目標を達成させることができました。長年望んでいた優秀な方々と交わす侃々諤々の議論、学生時代には扱えなかった膨大なデータ、この仕事をしていなければ会えなかったであろう方々、億単位のお金を動かすという裁量と責任、しかし、気づけば転職を考えるようになっていました。以下、思いつく理由を羅列します(順番に意味はありません)。

 

理由1:居住と滞在の違い、途上国で暮らす忍耐がなかった。忍耐として捉える時点で、居住は困難であった。

 

 私は今日に至るまで旅行を含めかなりの数の国々に渡航しました。中長期の滞在経験もあります。そうは言っても所詮は滞在です。居住するとなると、考慮すべきこと、耐えなければならないことは総じて多くなります。理由の1つ目は、途上国での暮らしが自分にとって過度のストレスになってしまったということです。国際協力は言うまでもなく、その多くは途上国を対象とするものです。ひとえに途上国と言えども、アフリカの国のように自然豊かで何もない国もあれば、インドやネパールのように人口が多く、行き交う人々で立錐の余地がない国、宗教的な理由により特定の食べ物を入手できない国や、危険がゆえ自由に出歩けない国まで、日本人が途上国で働くハードルは総じて高いです。自分が希望する国で働けるのであれば、それに越したことはありませんが、実際には契約期間中であれ、毎週のように各国で空席ポストがないかをチェックします。当然、自分の専門性が空席ポストの条件を満たすか否かが空席ポストに応募する前提になりますので、実際には、望んだ国で勤務できる可能性は限りなく低いと言えます。筆者は勤務先の国が筆者自身の許容できる範囲を超えていたと言うことです。例えば、筆者が働く国では交通渋滞が深刻で、わずか7キロの距離を2時間近くかけて通勤します。居住を許された区域が予め指定されているため、事務局の近くに住むことは許されません。移動時間の車の中で勉強ができるかと言われると、鳴り止まないクラクションの音で発狂しそうになります。家では24時間休むことなくクラクションの音が部屋まで響きます。少しでも外を歩くと空気汚染で顔が黒くなってしまいます。日本食がない。言葉が通じない。不衛生。日本人の友達がいない。こういった環境の下でも「異世界が楽しい」「おもしろい」と思う日本人も実際には多くいます。私はそうはなれなかった、というより、こういった暮らしを楽しいと思えるかは、その人の適性で決まると思います。

 

理由2:日本語で業務を遂行できないことに隔靴掻痒の感を覚えた

 

 「英語を使って仕事をしています」と言うと、「英語も使って」と捉えられがちですが、実際には業務の100%を英語で行っています。響きこそきれいですが、業務スピードは著しく落ちてしまいます。上司にはよく「仕事早いわね」と言われますが、内心はいつも「日本語でやったらこの10倍は早い」と感じて歯痒さを抱いています。転職を考えるに至った2つ目の理由は、日本語を使って仕事をした場合、自分がどこまでできるか(評価されるか)知りたいと思うようになったことです。先日、とある難民キャンプで取られた家計調査のデータを使い分析を行いました。その分析の内容と、結果が出るまでの分析の工程をZoomを介して職員に説明する機会がありましたが、筆者の英語力が低すぎるせいで、十分な説明ができないまま発表を終えることになりました。筆者はTOEFL109点と一般的にはそこそこの英語力はあるのでしょうが、どれだけ頑張ろうがスピーキングができません。よく、TOEIC講師や予備校講師がYOUTUBEで英語を話していますが、事前に話す文章を暗記したり、かなり限定された会話しかしない場合は誰でも話せますが、専門的な話を多角的に英語で議論する力は彼らも持っていないと思いますし、当然、自分にも備わっていません。20代という働き盛りの時期に、多くを吸収しスキルを高めていくべき時期に、英語を使って仕事をすることで成長が鈍化してしまうことに自問自答するようになりました。

 

理由3:肌感覚で緩い環境だと感じた。

 

 私の管見する限り、一定数の国連職員は中に入ることがゴールになっているため、入職後はなあなあと仕事をする職員が多いと感じました。契約社員が多い国連業界ですが、実際はある程度年齢や経験を積むと次の契約は担保されています。他方、若手は次のポストを確保するために黙々と働いていて、その認識や取り組む姿勢の差にギャップを覚えました。各国の拠出金が今後は減ると言われており、若手が入ることが一段と難しくなる業界であり、断層は固定化され、既得権益に浸る年齢層の高い職員が跋扈することになります。そうしたこともあり筆者自身、国連機関の存在意義や発言力が既に実質化しているのではないかと考えるようになりました。また、「エビデンスベースの政策提言」が求められる昨今ですが、分析を行うスタッフが非常に少ないのにもにもかかわらず、映像系やインフォグラフ作成が専門の職員を雇用する方向性に疑念が拭えなくなってしまいました。国連職員は国際公務員という枠であり、民間企業のようにコロナで給与が減ることもないため、その安定感から緊張感を持って仕事をする職員が一定数に留まっています。私は「自分の給与は自分で稼ぐ」というようなバイタリティを持って仕事に向かうことが当然と考えており、認識と現実との乖離に気づきました。

 

理由4:国際協力はビジネスであるという立場に共感ができなかった

 

 コロナの影響が人口に膾炙してきた2月、筆者の所属機関では「コロナでビジネスの機会が増えた」と雄弁に語る職員が多くいました。振り返ると、確かにこの業界では国際協力をビジネスとして捉える人たちが多かったことに気づきました。国際協力をどう定義するか、どのような位置付けとして捉えるかは正解も間違いもないと思いますが、ビジネスという側面でしか捉えられないようであればそこらの民間企業と変わらないのではないか、そのような考えの下では各国の状況は永遠に改善しないのだろうと感じました。当然ですが、全ての職員が細かなところまで共感をして仕事をすることはできません。とはいえ、大枠の部分での認識の違いはこの業界で働くことの意味を千思万考する機会になりました。

 

理由5:上流の経験と下流の経験、どちらを選ぶか。現場での声を拾えているのか

 

 一般的に国連機関は一つのプロジェクトがあって主にはその上流と中流とに携わりますが、実際の現場の声を拾えているのかについては些か疑問でした。国連スタッフの経歴をみていても、現場での経験を持った職員が少なく、官庁や政府関係者といった上流のみの経験しか持たない職員が多くいました。そのため、少なからず、現場のニーズが拾えていないということが明らかにわかっていて、総花的な政策を実行することがありました。そういう人材に自分もこのままではなってしまうのではないかという危機感を覚えるようになりました。

 

本稿では、国際機関を目指す方、また、国際協力に興味のある方を対象に向けて書いたため専門的な話はあえて触れませんでした。より細かいレベルでの質問やコメントがあれば可能な範囲でお答えさせていただきます。お読みいただきありがとうございました。

 

追記: 上述した理由により転職も前向きに検討しております。会社規模は問いませんのでご興味を持っていただいた企業様並びに人事様がいらっしゃればご連絡いただけますと嬉しいです。

 

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