抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

心配ならなぜ他人に預けるんですか

 

 凄惨極まる津久井やまゆり園事件から、四年目を迎えた。障がいのある友人を持つ人間として、あるいはこの国で暮らす一人の人間として、多くのことを考えるきっかけとなる事件であった。思えばこの事件について、有名無名をと問わず、様々な人たちが様々な発言をしているのを耳にした。

 事件の直後、自民党山東参院議長(当時は副議長)が、「(犯罪者を監視するために)GPSを利用するなど、きちんとした法律を作っておくべきではないか」と発言し、注目を集めた。犯人のことは絶対に許せないが、公権力の権限を大幅に拡大させて人権を矮小化する意見に賛成は当然できなかった。大多数の市民の恐怖と犯罪者の人権を天秤に掛けて、釣り合うはずもない二択を迫るやり方は、「テロ対策」とされる共謀罪にも見られる。しかし共謀罪があればテロは防げるのか。GPSがあればやまゆり園事件は起きなかったのか。本質から乖離した、嘆かわしい議論であった。

 流石に著名人の発言ではなかったが、周囲では「施設に預けるのがよくない」という暴論も聞こえてきた。障がい者を身内に抱える人たちの、痛いところを無神経についてきたな、という印象だ。

 それぞれの家庭が、少しづつ施設へ預けることへのためらいを抱えている。重度障がい者となれば、家族が二四時間一緒にいることはほぼ不可能だ。家族は社会生活を送れなくなってしまう。しかし自分と血の繋がった者のことを思えば、愛情もあるし、かといって永劫この生活はきついと考え、その薄情な感情を持つ自身に苛立って毎日を過ごしている。

 要するに、家族はみな、外野から指摘されるよりもずっと前に、施設へ預けることへの罪悪感を胸に抱えているのだ。だからこそ、あらゆる施設を回り、少しでも努力させてほしいと願っている。戦後最大規模の死者を出しておきながら、メディアでの扱いがそれを感じさせないのは、被害者の家庭がそもそも複雑だからである。

 この種の自己責任論は、基本的に家族単位でなんとかせよという無言の圧力が根底にある。私の友人の母親も「心配ならばなぜ他人に預けるのですか」と何度も言われたと口にしている。家族の内々で処理し、絶対に汚物を社会に垂れ流すなという冷たい響きを持った言葉である。政府はますます家族の温かさを強調し、理想を刷り込むが、絆という言葉の裏に縫い付けられた弱者切り捨ての不条理を感じずにはいられない。

 やまゆり事件を知った時、多くの人が「許せない」「可哀想」と感じるのは良い。しかし無責任に放った意見が、ある立場にいる人を傷つけ、孤立させてしまっていることを認識する想像力は持っていてほしい。事件から早くも四年の月日が流れたが、この事件は風化させてはならないと肝に命じる。

 

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