抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

国によって殺された人々を想う

 

 複雑な世界を読み解く時、国家(権力・統治機構)と国(民族・国土・文化)を分けて考えると、ある種の視界が開けてくる。国家益と国益はしばしば衝突する。国家によって国が蹂躙、収奪、抑圧された歴史を日本人は先の対戦で経験した。沖縄への米軍基地の押し付け、福島原発事故をもたらした原子力政策と戦後も歴史は繰り返している。しかし、安倍首相の言動にのぞく国家観に、歴史から教訓を学ぼうとする問題意識は皆無に等しい。

 「歴史や伝統の上に立った、私たちの誇りを守るのも私の仕事。それをどんどん削っていけば(他国との)関係がうまくいくという考え方は間違っている」。靖国参拝に中国や韓国から批判が出ていることに、首相は強く論難した。「私たちの誇り」「美しい日本」「国柄」。権力者が使うこの種の言葉は、国家と国が別物であることを糊塗する。

 日米同盟を基軸とする戦後日本の政治選択は、憲法が掲げる理想に逆行してきた。米国は「テロとの戦い」と称する戦争で、幾多の無辜の人命を確信犯的に奪いながら謝罪も補償もしない。日本人は米国の非道には完全に不感症にさせられている。核拡散防止条約の「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に日本政府は賛同しなかった。米国への配慮から被爆国としての道義を軽んじて久しい。米国批判をタブーとする同盟関係は、国際社会における道義を捨てることで成り立っている。そのような国家が国民に対していかなる「誇り」を持てというのか。

 靖国神社には「国のため」と信じ込まされて、実は国家のための戦争に動員され、国家に死を強要された戦死者を「国のために命を捧げた」と美化するすり替えの論理が埋め込まれている。靖国の論理を突き詰めると、「国家と国は一体」「国家あっての国」である。国家にとって、死を強要した側と強要された側が一緒に祀られることの意義はここに生まれてくる。

 米国追従を深化させている首相が語る「私たちの誇り」と、道義を捨てた日本の今の姿を「英霊」たちはどんな思いで受け止めるだろうか。私が「英霊」の一人であれば、「自分は何のためにアメリカと戦い、死んだのか」と自問する。愛国者を気取り、靖国参拝のパフォーマンスを演じる政治家の群れが、国家と国の一体感を演出するために「英霊」を利用する欺瞞に怒りを覚えるだろう。

 安倍政権が成した「改憲」は「国家あっての国」を先鋭化させた国家観に基づいている。そのような政治に操縦されている国家がどれほどの災禍を国にもたらしてきたか、古今東西の歴史から読み取ることは難しくない。私はそのような歴史観を持って安倍政権への「抵抗」を乱打したい。

 

f:id:ogrenci:20200617232033p:plain