抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。国連専門機関

「いらっしゃいませこんばんは」が気持ち悪い

 

 数年前からコンビニ店員の挨拶が長くなった。とても耳障りだ。基本的に「いらっしゃいませ」も「こんばんは」も、言われて気持ちの良い言葉のはずだ。それが合体したのだから二倍気持ちが良くても良い理屈だが、これがどうしたものか気持ちが悪い。それぞれの語が持っていた人間味のようなものがどこかへいってしまった。

 これまで、いわゆる「ら抜き言葉」や、「一万円”から”お預かりします」「お釣りの”ほう”が三〇〇円」等、文法的・用法的に問題のあるとされる表現をあげつらう声は少なからずあったが、私はそれ以上に、文法上は誤りはなくても、「人間の言葉であることをやめた日本語」が幅を利かせている現状を苦々しく思う。「いらっしゃいませこんばんは」や「ありがとうございましたまたお越し下さいませ」は人間の言葉ではないと思う。マニュアルに忠実なロボットの言葉だと思う。自分で考えることをやめた者の言葉だと思う。残念ながらこれはコンビニ店員に限ったことではない。メディアの世界でも思考停止が蔓延している。例を列挙してみる。

 「ニュースを続けます」ニュース番組でニュースが続くのは当たり前だ。「今日のまとめのニュースです」今日という1日をそう簡単に「まとめ」られるものではない。「応援よろしくお願いします」スポーツ選手が乱発している。ただ、この背景には「ファンのみなさんに一言」という、インタビュアーの空虚な要請があることを忘れるわけにはいかない。

 「森保ジャパン」や「原巨人」も奇妙な表現だと思う。日本のスポーツ界では、選手ではなく指導者が主役だという実態と、それを批判どころか礼賛しているマスコミのおめでたさが表れている。他の国々のスポーツではこうした表現が見られないことに鑑みると、彼らは日本スポーツ界が世界標準とは別物であると認識しているようだ。なおかつそれをよしとしているということか。

 「××にできること」、、、企業や商品のキャッチコピーに多いが、何が言いたいのか全くわからない。使っている人たちも多分わかっていない。思考停止しているから、それを気にしていない。思考停止の真打ちは「小泉構文だ」。この人の愛用した日本語は、もはや冗談以外に使えないほど、その価値が低下した。国民の大半が、考えることをやめて彼を野放しにしたが、これ以上の看過はできない。

 「言葉は思考と不可分なもの」とは、この国では言い切れなくなってきた。言語は、それを使う人々の性質を反映しないものだろうか。

 

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