抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

二つの奇跡

 

 「橋の所には、人がいっぱい死んでいました。真っ黒に焦げて死んでいるもの、ガラスのかけらがからだにいっぱい刺さって死んでいるもの、いろいろいました」「川縁には死体がそこら中にごろごろしていた。その中にはまだ死んでいない者もあり、『お母さーん。お母さーん』と叫んでいる子供もいた」(『原爆の子』岩波文庫)。

 1945年夏、日本は米国にとって、まさに「悪の中軸」であった。広島は大陸侵略の拠点であり、第二層軍司令部を置く「軍都」だったが、8月6日朝、無警告で投下された原子爆弾が壊滅させたのは、兵営や軍需工場だけではなかった。それは圧倒的に、普通の人々ーー多くの子ども、女性、老人を含むーーの日常を、文字通りに焼き尽くしたのだった。

 大きな都市が二つ、丸ごと灰燼に帰した凄まじい惨害。世代による濃淡はあるかもしれないが、戦後の日本人は、この地獄の光景に、映像で、小説で、芝居で、アニメで、繰り返し接してきた。いわば、「国民的記憶」になったとさえ言えるだろう。

 初めからそうだったわけではない、当初、日本を占領した米国は、原爆の被害実態を明らかにすることを禁じ、平和集会の開催さえ禁止した。米国への「恨み」を日本人に持たせないためという。1952年、占領は終わったが、同時に米国と同盟を結び、その「核の傘」に入ることを選択した日本政府は、原爆被害の実態を究明・記録し、被爆者を援護することに積極的であったとはいえない。むしろ記憶を抑圧し、妨害し、忘却を望んでいたのである。

 そうした力に抗して、半世紀の間、原爆の惨害を語り続け、記録し続け、記憶し続けたのは、民衆であった。それは、怒り、嘆きからだけではない。強い後悔の念(なぜこんな戦争をしてしまったのか)とも繋がっていた。井伏鱒二「黒い雨」には、被曝直後の広島を歩き回った主人公が、延々と続く死者の群の中で突然怒りに襲われる場面がある。

 「『許せないぞ。何が壮観だ。何がわが友だ』僕は、はっきり口に出して云った。(略)戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」。

 反戦思想というより厭戦感情。しかしここには、民衆の正直な、だからこそ強い、戦後日本を貫くコア(核心)のようなものがあるのではないか。

 日本の民衆の、原爆と戦争に対することの記憶と感情があったからこそ、米国は朝鮮、ベトナムでの戦争で核を使用することを思いとどまったのだし、60年代まで、日本の核武装を検討していた日本の政治家も、ついに諦めざるを得なかったものだ。

 無力感とお上意識を脱却できなかったかにみえる日本の民衆の、この強さが第一の奇跡だとすれば、第二の奇跡は、日本民衆のその激しい感情が決して「報復」に向かわなかったことだ。「国家の安全」ではなく、「人類の尊厳と生存」が、そこには表現されている。

 

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