抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

働かせる自由の拡大・働く自由の縮小

 

労働者の破壊が凄まじい勢いで進行している。この20年で労働者の生命と健康と生活を守るための規制や保護が、次々と撤廃された。その変化を一言で言えば、「働かせる自由」の拡大、「働く自由」の縮小である。

 企業は、正規雇用を非正規雇用に置き換え、労働条件を切り下げ、労働者をモノのように転売し、文句を言う者は切り捨てた。「働く自由」の縮小は「人権」の縮小に他ならない。働くことは、個人や家族の生計を立てるためだけではない。働くことによって、人は他者と関わり、社会に参加する。だからこそ、働くことは喜びであり、自己を支える誇りとなる。喜びと誇りからモラルが生まれ、責任意識が生まれる。

 奴隷労働には喜びも誇りもない。日本社会からモラルや責任意識が薄くなったのは。、労働のあり方と深く関わっている。貧困と無権利状態の中で、時間を切り売りせざる得ない末端の非正規労働者たちは、まるで「現代の奴隷」ではないか。こうした働き方の蔓延は、民主主義を衰退させ、社会を脆弱にし、危険を増大させる。全雇用者に占める非正規雇用者の割合は高くなるばかりである。この恐ろしいほどの変化が社会を変えない筈がない。

 こうした労働・人権破壊を、「多様な働き方」「雇用の流動化」などと正当化し、旗を振って実現させてきたのが経済界である。一時期、経団連のビジョンは「行き過ぎた規制、介入は雇用機会を縮小させ、再チャレンジの障害になる」とあった。一体、どこに「行き過ぎた規制、介入」があるというのか。格差社会少子化について、このビジョンは憂えてみせる。しかし、それらをもたらしたのが、まさに自分たちが進めた労働破壊であることには一言もない。

 仕事がなかったり、働いても生活ができないワーキングプアが、どうして家族を持てるのか。どうして子どもを育てられるのか。頻々と報道される家族の中の虐待や暴力の陰に貧困の問題が指摘される。先進国における出生率の上昇には、適正な労働時間、雇用機会の均等、家庭内役割分担の柔軟性、社会の安全・安心ど、若者の自立可能性などといった指摘の改善が必要とされる。その多くが働き方に関わるものであり、経済界がなしうることは多い。何より人権と生活できる賃金を保障し、若者が将来設計できるあ安定した職場を作ることだ。

 それこそ経済界の担う社会的責任というものであろう。それをやらずに、「地域の連帯」だの「家族の絆」だの、企業が介入すべきでないところで虚言を発するのは、無責任というべきである。経済界は日本を戦争に引きずり込みたいのか。もしそうなら、経済界は「憲法の敵」「平和な社会の敵」である。

 

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