抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

民主主義を「する」ものへ

 

 縁も所縁もない、あるいは全く遠い世界の学者先生の誰が日本学術会議の会員に選ばれようが、誰が政府によって拒否されようが、そんなことは我々の日々の暮らしになんの影響もない。「世論」の動向を見ているとそうとしか思えないのだが、しかし、それで本当にいいのだろうか。

 例えば、最高裁が提出した裁判官の新任再任名簿から内閣が何人かを拒否して、その理由や根拠は決して明らかにしないとする。いろいろ調べていくと、再任拒否の裁判官が、国が訴えられた裁判で国側敗訴の判決に関わっていたことが明らかになった。こういうことになれば、裁判官や裁判所には疑心暗鬼の状況が生じ、裁判官・裁判所の独立も、憲法で明記されている裁判官の身分保障も、ひいては権力分立(三権分立)も成り立たなくなってしまう。

 中学生でもわかるこういう事態になっても、それでも世論の多く、あるいは底堅い二割程度の政権支持者は、「我々の日々の暮らしに直接悪影響を及ぼすものではない。そんなことより携帯電話料金値下げの方が身近で大きな問題だ」などといって、無関心、あるいは容認・黙認を決め込むのだろうか。

 裁判官の任用でも、日本学術会議の会員任命でも、たとえ内閣に「拒否」の権限があるとしても、それを無闇に行使しないのが、当然の良識であり、節度というものではないか。最高裁日本学術会議が提出した名簿の全員を前例踏襲で採用するのがいいかと問われたら、行政府にとって不愉快、不利益な人間かどうかを調べ上げて、該当する人間を拒否するよりかは、はるかに真っ当な行政手続きだと思うと私は言い返したい。

 行政府が剥き出しの敵意と傲慢を示して、健前の民主主義すら崩壊させようとしている時、国民の側としては、それはおかしいと声を上げ続けることで、その野蛮を辞めさせなければならないと思う。

 

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