抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

当事者の痛みを理解できるまで

 

 私が高校生の頃、1人の同級生が編入してきた。彼女は東日本大震災を経験して、私の住む県に引っ越してきたらしい。ニュースで取り上げられるような陰湿ないじめことなかったが、クラスは接し方に戸惑っている風ではあった。

 ある時、試験勉強のために訪れた図書館で、ばったり彼女に出会った。腕に抱えられた「行政訴訟」の文字に目を落とすと、彼女は少しばつの悪そうな顔をした。「難しそうな本だね」という私の呑気な問いかけに彼女が答えてくれたおかげで、その日は話が盛り上がり、図書館の前にある公園で夜まで話をした。「いつも閉館までいる」という彼女に、私は「勉強熱心だな」という感想しか抱かなかった。

 高校も卒業してそんな思い出も記憶の奥底にしまわれたころ、ニュースで原発集団訴訟を見た。インタビューに答える女性に見覚えがあった。彼女だ。高校生の時と変わらない、風貌であった。それからスマホを取り出して彼女に電話をかけるまで、どんなことを考えていたのかは今となっては覚えていない。けれども、試験勉強の時に少し図書館を訪れた私などと違って、何のために彼女が図書館に通っていたのかわかったとき、話したいと思った。

 実際に会って話した彼女は、高校生の時よりもさっぱりとしていた。慣れ親しんだ福島県を離れるのが嫌で、住まわされた家をどうしても好きになれずに図書館に入り浸っていたこと。けれども貸してくれた大家さんがとてもいい人で、その善意を受け入れられない自分に嫌気がさしていたこと。そして、似たように苦しむ人が大勢いて、自分たちの苦しみの原点に国家や東京電力が引き起こした原発事故があることを知ったのだという。

 全国20か所以上ある原発集団訴訟の中でも、精神的苦痛の根拠に判決はこの国の責任を退け、東京電力の過失を「重大な過失ではなかった」としながらも、賠償金額の増額を認めた。これは、ふるさとを喪失したことが慰謝料の対象になることを認めたに等しい。原告弁護団が当時主張していたように、国や東京電力の責任を矮小化する判決であり、その意味においては不当判決だと私も思った。だから、同級生に「よかったね」という言葉はかけられなかった。しかし、司法が「ふるさと喪失」を根拠としてその精神的苦痛があることを事件後6年以上の年月を経て認めたことは小さくないと思う。

 私たちは日々の報道に接する際に、結論部分である判決にしか興味を示さないが、その根の部分に多くの人たちの思いがある。そこに想像力を使い、ある人が受けた痛みを当事者の目線で考えることができるようになるまで、あと年々の月日を要するのだろうか。

 

f:id:ogrenci:20200620170402p:plain