抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

命の教育

 

2017年に当時の現行刑法の性犯罪規定が一新されたことは記憶に新しい。性交等強要罪ばかりが注目され議論は収斂したが、その陰で新設された監護者性交等罪も大きな一歩だと評価された。だが、よく見るとこれは主体を監護者に絞る規定であり、監護者は経済的援助を行う者を指すから、教師は含まれない。これには2020年6月に国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ」(HRN)が刑法改正案を発表している。

 教師による性犯罪、特に「家族のような」閉じられた場所での類する行為は多い。2019年千葉県の教育委員会定例会で、前年2018年の1年間で424人の児童・生徒が、教職員の言動を「セクハラ」と感じたと回答した。その前年の2017年には、大阪府の高校でソフトテニス部の顧問が、女子生徒に対し全裸を強要する事件が起きた。「先生とエッチできるくらいの覚悟で試合に臨め」との信じられない発言をした彼は、大阪府高校体育連盟の理事も経験した、いわゆる名士だった。

 同様に、その前年には、神奈川県のバレーボール部顧問が多数の女子生徒にマッサージを強要するセクハラ事件など、毎年のように「部活」という密室で行われる性的被害が明るみになっているように思う。

 極端な例は、90年代の九州で起きた事件だ。女子バスケットボール部の顧問と複数の女子生徒が関係を結んだという。選手の中には、関係を望む傾向さえあったという。洗脳され、歪んだ価値観になっていったのだ。

 これらの事件を、単に顧問の問題と結論づけるのは容易だ。現に多くの教員は指導者としも熱心で、そればかりか無償で部活を引き受けている。だが、私は「部活」という密接された空間における異常性について、少し思うところがある。

 新聞を賑わせる部活動におけるセクハラや体罰の事件は、たいてい運動部である。それは上意下達を徹底し、有無を言わせない体育的な雰囲気に一因があるが、実は吹奏楽部や合唱部などでもこの文化は根強い。

 私の姉は、高校生に二度吹奏楽部の関西大会の舞台に立ったが、顧問が最初に言った言葉をいまだに忘れられないという。「ここは治外法権だ、君たちは金賞を取るまで人権もない」。姉は驚き、楽譜を落とした。そのことが3年間ずっと顧問に「いじられる」原因となり、指導と称して発生中に口に指を入れられたり、腹式呼吸の確認と称して下腹部すれすれを触られたりした。

 よく人は、「結果が伴えば嫌な記憶は忘れられる」と言うが、それは間違いだと思う、関西を舞台に演奏し、うち一回は金賞も獲ったが、おかげでなんの感慨も消え伏せてしまったという。むしろ、結果を出せば全てがチャラになる風潮に苛立ちさえした。

 部活とは、指導者である大人一人に対して判断能力のない中高生が数人いる独壇場である。必然的に顧問は独裁者になりやすい。加えて、勝ち続けることで学校、保護者、地域からの期待と尊敬は高まり、実績さえ出せば誰も逆らえなくなる。私のサッカー部の顧問も、陰で「〇〇天皇」と呼ばれていた。

 こうした事件が連日のように報道される中で、学校は部外者への対応は厳しくなった。IDがないと保護者さえ入れない学校もある。しかし、より危険なことは、いつも顔ぶれが変わらず、新しい価値観を提示するものがなく、歪な伝統を頑なに守ることではないか。

 学校は社会の縮図だとよく言われる。閉塞感によって思考停止に追い込まれていく状況を、今こそ真剣に見直さなければならないと思う。