抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

脆弱性

 

 新型コロナウイルスがすベての人の階級、地域、年齢、性差などにかかわらず被害をもたらすという警告は、一見正しいようではあるが正確ではない。いや、突き詰めれば間違いである。

 ジャレド・ダイアモンドによれば、1492年、コロンブスが、イスパニョーラ島に到着した時の人口800万人は、1513年にはゼロになった。

 大規模な虐殺が行われたのではない。天然痘などの感染症に何ら免疫を持たない先住民族が、それらの疫病に対し壊滅的な打撃を受け民族的な滅亡に至ったという。

 一方、征服を試みたスペイン人はみな子どもの頃、感染し効果的な免疫を身につけていた。これらの事象は、500年前に起きた歴史的な出来事では終わらない。例えば、1970年、麻疹にかかっていた子どもを連れた西洋人宣教師がアマゾン奥地に住むヤノマミの人たちと接触し、感染した人たちの25%が死んだとされる。

 翻って、現在世界で起きている現象を俯瞰すると、それが歴史的な悲劇と無関係とは断言できないだろう。ニューヨークのコロナ感染者の死者が、都市の中心部で比較的貧しい生活の黒人等のマイノリティーに偏しており、我が国でも在宅勤務が可能な企業が大企業に限られている事実を見ても、コロナは平等に訪れるわけではないのだ。

 仮にコロナの機会は平等かもしれないとしても、その結果は決して平等ではない。

 更に、懸念するのは、毎日のように発表される国別の感染者数、死者数が、あたかも各国の医療体制更には国家体制の優劣を競うような傾向に傾斜していくのではないかというこだ。たとえば、感染者数や死者数を、低く報告する例がそれだ。

 16世紀の疫病とともに新大陸を侵略したスペイン人が、またたくまに先住民を征服したのち、わずかに生き残った先住民がマクニールのいうように「魂も抜けたようになってスペイン人の優越性を黙って受け入れる以外の反応はあり得なかった」というような事態だけは見たくない。

 

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