抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

アンウェアな社会

一週間ほど前、英国の大学院に進学をしているとある女性のブログ記事を読んだ。記事では、彼女が留学の機会をもぎ取るために必死で英語を勉強していた体験記が叙述されており、半年間で民間の英語試験を10回も受験し、そしてようやく基準点に達し、その立場からこれから大学院留学を志す若者たちに向けたメッセージが込められていた。


 この記事を読んだ私は、「頑張れば誰にでも夢は叶う」というメッセージの裏に、頑張ってもどうしようもならない弱者との断絶を狭間見た。大抵の者は、1回の受験で2万5千円もするような英語の試験を10回も受ければ、望むような点数は取れるのであろうが、高額な試験を何度も受けられる者は、ごく僅かである。


 去年、文科省から、大学入試において、2021年度から英語外部試験の必須化が提言された。入試に必要な要件が、学校の外でしか得られないのであれば、また格差が深刻化する。既に、試験合格に導く予備校や学習塾はアンフェアな教育を助長している。この提言は、多くの大学機関をはじめとする教育界から激しく論難され、あげく、必須化は見送られる次第となった。しかし、こうした提言が、国から発せられることに不安が拭えない。


 教育は貧困の連鎖を脱する唯一の解だと信じていたが、その教育でさえ「持って生まれた者」にとっては優遇され、「持たずに生まれた者」にとっては大きな壁となって立ちはだかるのである。


 よく、学歴は最もフェアな基準であるから、就職活動において企業が学歴フィルターをかけることは当然のこと、と語る者がいる。私も、企業側が高学歴優遇にならざるを得ない事情には理解を示している。しかし、明らかにフェアではない学歴の獲得に「最もフェアな基準」と言い立てるのは、どこかで酷な現実を歪曲し、直視することを避けているからではないか。


 ブログの筆者は生まれた時からすでに与えられた環境が用意されていたため、その酷な現実があることを、そして社会には決して交わらない2つの層があることを、知らずに大人になったように感じた。

 

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