抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

教育の目的

 

 昨今、教育の結果によってその後の人生に截然と勝ち負けが決定されるかのごとく、教育機関が競争の場として頽落してきたように思う。思い返すと、昨今ほどではないが、日本は旧態依然として教育に対する認識が短絡的であった。一言で言えば、教育機関の独立性が形骸化し、官民の汚らしい癒着が原因として、教育機関にあらゆる介在がなされてきた。そして、その結果、「社会で使える人材の輩出場所」として教育が位置づけられてきた。「学生が学んだこと」は「実際に社会でどれくらい活用できるか」のみで評価され、やがて、すぐに使えるスキルを身につけない文系が毛嫌いされた。社会がそれを求めるから、やがて教育機関も「就職ランキング」を学校評価の大きな軸として捉え、学生の就職率や就職先であたかも学校の価値が決定されるかのごとく、学生を煽った。社会と学校が悪戯に学生を煽った結果、「実務経験」を得る目的でアルバイトやインターン(それも1日や2日間だけといった全く意味をなさないもの)に参加し、結果として教養を身につけないまま社会へ輩出されていく学生を挙げれば、枚挙にいとまがない。

 確かに、社会が求めることを学校が応え、それを学生に注入する構図は合理的であるように思う。もし、教育の目的が「就職すること」に置かれているならば。

 学校教育は「教養を身につけることが本来の目的」だと私が教えられたのでは、高校3年生の時だったように思う。共通の知人を通して紹介いただいたその女性は、皆が羨む経歴を持ちながら、仕事を辞めて世界中を旅していた。その道中に寄った日本で、私は彼女と知り合うことになった。あれからもう10年が経とうとする今、時より彼女が私に言ってくれた言葉を思い返すことがある。

 

「昨今は労働力の育成に大学教育が貢献していないと世界中で批判がなされているよね。でも、この批判も学校教育の目的が閑暇を楽しむセンスを育てることだと知っていれば、的外れであるということがわかると思う。つまり、学校というのは労働技術をではなく、閑暇の楽しみ方を学ぶところであり、だからこそリベラルアーツには音楽が含まれています。閑暇を知的に楽しむセンスを養うためには教育が必要です。これが古代ギリシャで学校が生み出された理由だとされています。」

 私はこの言葉を聞いた時、教育の結果で競い合うことは意味がないことだと知った。私はこの言葉は、今の日本の全ての学生、教育機関、企業が耳を傾けるべく示唆に富んだものだと痛切に感じる。

 

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