抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

Education for Self-Cultivation

 

 学校教育について現職の教員の方と話をする時、教員の世代間において今と昔との間にある「雲泥の差」を感じずにはいられない。年配の教員は、「自分が若い頃は息苦しさや孤独感を感じたことはなかった。教師には多くの自由があり、生徒にはゆとりがあった。現在は、教師の自由が奪われ、生徒のゆとりが失われた」と縷々に述べた。なぜなのだろうか。今こそ、教育とは何か、という問いかけが必要な時期なのではないだろうか。

 学校教育には、「学力」を身につけさせること以外に、防災、環境、キャリア、交通安全、薬物教育、食育、あるいは生活指導、進路指導などがある。学校には多くのものが持ち込まれ、身動きが取れなくなり、機能不全に陥っている。私は教育開発を専門としているが、現在の政治家は、学校教育と学習塾とを安易に比較して、学校を不当に貶めているように感じられてならない。そして、安易な競争原理が学校現場に持ち込まれ、公立学校と私立学校、あるいは、公立学校間の序列づけが、高等学校の場合は「教育=学力=有名大学への進学人数」、中学校の場合は「教育=学力=有名高校への進学人数」でつけられている。本当にこれで良いのであろうか。

 戦後の高度経済成長を実現するために、日本の学校は会社や工場で働く人材を育成するための機関に変容してしまった。その過程で、家庭や地域が崩壊し、それらの役割を学校教育が負わされることとなり、「教育=学校」という図式が成立した。それ以来、「教育改革」は、「学校改革」となってしまったのである。そして、政治が「教育改革」という名目で、「学校改革」に介入してきた。政治家が「学校改革」を口にすれば、一般市民は「教育改革」と受け取り、有名高校や有名大学への進学実績が学校改革の成果と考えられるようになる。

 教育の本来の目的とは、人間形成にあるのではないか。他人との競争ばかり教えられた学生が、他者と協力して生きる術を身につけることができるのであろうか。大衆化した学校教育は、競争だけでなく、共生することを教えるべきである。政治が教育に介入する前に、なぜ日本の学校教育が機能不全に陥ったのかを考えるべきである。学校を取り巻く地域コミュニティや家庭などを、どう支援していくかも、政治にとって重要な課題であるはずだ。

 最近、自警団の方々に子どもの交通安全について話を聞く機会があった。「おはよう」と子どもたちに声をかけても、返ってこない場合が増えたと不安を漏らしていた。以前は、多くの子どもたちが率先して大きな声で挨拶を返してくれたと吐露した。朝起きて、「おはよう」というコミュニケーションの第一歩の挨拶は、誰が、どの場所で、教えるべきなのであろうか。

 

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