抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

第三のオリンピック

 

 東京オリンピックが甚大な爪痕を残して幕を閉じた。参加した全ての選手と彼らを支えるサポーターには敬意を評したい。他方、日本に暮らす民へのイマジネーションを清々しいほどに欠いた日本国総理大臣と国際オリンピック委員会会長の前で歌われる「イマジン」はブラックジョークとしては悪くはなかったが、ショートしてはしょぼかった。多様性とか被災地復興とかコロナとの闘いとかエッセンシャルワーカーへの感謝とか、「言っておかなきゃいけないこと」が律儀に詰め込まれてはいたものの、表層のパッチワークで中身はスカスカ、全体を貫く哲学がないから他者に伝わるメッセージにはなりえない。例えるならば、小学校の卒業式、「僕たち」「私たちは」と児童が一人づつ起立しては細切れに言葉を繋いでいくやつ。ひとりひとりの頑張りと、みんなで力を合わせたんだねということはわかるけれど、メッセージとして残ることはない。そんなことが国家規模で行われたように思う。

 ところがそのしょぼさが、私にはとてもしっくりきたのだった。中止を求める世論への十分な説明や説得がないまま強引に開催へとなだれ込み、人権意識の低さを露呈して関係者が辞退したり解任されたりした経緯込みで、この国の現状を正しく反映しているのではないか、と。負の側面も含めた自国の歴史を真正面から引き受けることなく、江戸の火消しとか大工とか歌舞伎とか、都合のいいところだけつまみ食いして「クールジャパン」などとはしゃいでいる底の浅さ、「内輪うけ」のうすら寒さが、あの開会式に凝縮されているのではないか、と。上手にまやかされ、国威発揚されるよりはマシだ。オリンピック開会式という一世一代の晴れ舞台に立っても普段と変わらず陰鬱そうな日本国総理大臣の表情を見ながら、そう思った。

 たとえば、ここに今日、無責任な政治家の祝典「無責任ピック」が開催されたとする。前首相の安倍晋三菅義偉、どちらを表彰台の一番高いところに立たせるべきだろうか。どちらが頂点にふさわしいのだろうか。その判断材料を振り返りたい。

 

 安倍は2019年9月、IOC総会における招致演説を英語で行った。そこで東京電力福島第一原発の汚染水漏れについて、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています」と述べた。国際社会に向けて堂々と嘘をついた、いわゆる「アンダーコントロール発言」だが、日本社会がギョッとしたのは最初のうちだけで、時期に前向きな功績としてカウントされるようになる。「ウソとかホントとかどうでもいい。プロセスよりもとにかく結果だ」という、イケイケのネオリベ起業家的価値観が政治の分野でも本格的に花咲いたと言える。

 政治家には本来、高い規範性が求められる。ウソをついたことが露見すれば政治生命を断たれかねない。だが安倍はそんな縛りからするっと解き放たれた。招致成功は安倍に翼を授けたのだ。強いリーダーのイメージを獲得した安倍はその後、特定秘密保護法制定、集団的自衛権の行使容認へと突き進み、さらにはオリンピックを、自身の悲願である憲法改正への推進力として最大限に利用しようとする。2017年の憲法記念日改憲派の集会に次の様なメッセージを寄せている。味わい深いので長いが引く。

 

「私は、かねがね、半世紀ぶりに、夏季オリンピックパラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わるきっかけにすべきだと申し上げてきました。かつて、1964年の東京オリンピックを目指して、日本は、大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい、と強く願っています」

 

 ところが2020年3月、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、東京オリンピックパラリンピックの一年拡大が決まる。大会組織委員の会長であった森喜郎は朝日新聞のインタビューに「安倍首相は2020年に賭けたと感じた」と語った。森によると、IOC会長のバッハ安倍が電話会談する30分前に公邸に呼ばれて二人きりで会った際、安倍は一年程度の延期を主張。森が「二年延ばした方がいいのではないですか」と言うと、「日本の技術力は落ちていない。ワクチンができる。大丈夫です」と応じたという。また、安倍の自民党総裁任期が21年9月までであることを念頭に、森が「政治日程も考えないといけないよね」と言うと「あまり気にしないでください」と苦笑いしたという。

 ちなみに森は、自身が一年延期を了とした理由について「日本の科学技術を信頼しようと考えたからです。私自身はオプジーボを打って助かった。日本の素晴らしい医学・科学技術によって助けられた人間だから信じたかった」と話している。

 はっきり言って気持ちが悪い。首相と元首相による見事な楽観と思い込みのパス回し。オヤジとオヤジのラブラブゲーム。そしてIOCは一年延期を受け入れ、安倍は記者団に胸を張った。「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、安全な形で東京オリンピックパラリンピックを開催する」

 安倍の「賭金」にされたものはなにか。国民と命と暮らしである。しかし、「賭けますよ」という相談も、「大丈夫ですから」という仮説も、何一つ、これっぽっちもされた覚えがない。しかも、である。安倍はこの5ヶ月後、病気を理由に政権を投げ出すのだ。

 病気だから仕方がない?私はそうは考えない。もちろん、安倍晋三という一人間には同情を覚える。しかし政治家、とりわけ絶大な政権を握る首相の責任には体調管理も含まれており、コロナ禍という「国難」の渦中での突然の辞任は、冷たい様だが無責任の極みである。それでも、当人が真面目に反省しているのならまだ情状酌量の余地はあるが、今年6月発売の月刊誌での対談で、「歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回のオリンピック開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました」と言ってのけている。

 国産ワクチンができず、コロナには打ち勝つどころか追い込まれた。一年延期という安倍の判断ミスの責任はとてつもなく重い。ところが謝罪もない。釈明もない。オリンピック開催式は欠席した。無観客を理由にしているが、私は逃げたと理解している。国民の命と暮らしを勝手に賭けて「戦端」を開いた当事者なのだから、安倍ノマスクを4重にでもして参加すべきであった。

 

 安倍の引いたレールに菅は乗っただけ。よって、安倍の金メダル確定、と思われることだろう。だが、菅の無責任は、安倍のそれとはタイプが違うので注意が必要だ。どちらもしょっぱい水なのだが、安倍は水に塩化ナトリウムを加えたもの、菅は海水そのもの、、というたとえは、わかりにくいだろうか。わかりにくいな。本邦の最高権力者だったお方ぬこういう言い方をするには多少ためらいを覚えなくもないが、つまり菅は、〇〇をやったから、やらなかったから無責任というレベルを超越していて、首相として在ること自体が無責任だというより他はない。

 首相の責任とはなにか。第一は説明することである。しかし、菅は言葉を「つかえない」。菅が発する言葉は説明でも説得でもなく、「指示」か、当事者意識を欠いた「来賓あいさつ」か、この二つに大別される。

 4月23日の記者会見。「東京オリンピックの開催はIOCが権限を持っている。IOCが東京大会を開催することをすでに決めている」。それが事実だとしても、いや、事実ならばなおさら、国民の理解を得るべく言葉を尽くさなければならないはずなのに、その地点に棒立ちしたまま、人流は制御されている、ワクチン接種の効果が出ている、安心・安全な大会の実現に向けて努力するーなどの定型分を使い回すだけ。

 ただ、そんな菅も開会直前、米紙ウォール・ストリートジャーナル日本版のインタビューでは覚醒していた。オリンピック開催判断について、」周囲から中止が最善の判断だと何度も助言されたことを明かした上で、「やめることは一番簡単なこと、楽なことだ」「挑戦するのが政府の役割だ」と語ったのだ。わあ初耳。では、菅の勝手な朝鮮はいかなる結果を招いたのか。コロナウイルスの爆発的感染拡大である。オリンピックとの因果関係は不明とされるが、事実として災害級の様相を呈している。その前兆、国内感染者数が過去最多となった7月28日、報道各社は菅への「ぶら下がり」取材を要請したが、秘書官は「本人はお答えする内容がないため、ぶら下がりは受けません」。首相は退邸時に「どう対応するのか」と呼びかけもしたが、何も返答はなかった。

 オリンピック閉会。バイデン米大統領と電話でおしゃべり。妻のジル氏も同席したそうで、菅は「二人からオリンピック東京大会については素晴らしい成功を収めた。祝意を表したい、という内容のお話を頂戴した」と嬉しそうだった。国民から合意調達に汗をかかずに米国のお墨付きを欲しがる。「◯国」。我が脳内に点滅した漢二文字は、言わないでおく。

 さてここでもう一度問う。無責任な者だけが競いあう「無責任ピック」が開催されたとする。安倍と菅、どちらを壇上の一番てっぺんに立たせるべきだろうか。

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