抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

IR誘致に隔靴搔痒の感がある。

 

去る八月二二日、横浜市の林文子市長がIR誘致に乗り出す方針を明らかにした。二年前の市長選挙の際、市長は「IR誘致は白紙」だとしていた。「市民の意見を踏まえた上で方向性を決定する」ともしていた。ところが、ここにきて誘致の方針が突然打ち出されたのだから、多くの国民は驚いているだろうし、反発する声も出てこよう。

 このIRを安倍政権は成長戦略に位置付け、東京オリンピックパラリンピック後の観光ビジネスの新たな起爆剤にするという。ただIRとは何のことか多くの国民は分かっていない。Integrated Resort(統合型リゾート)の略だというが、それでもわからない。この政策の本質はカジノ解禁にあるが、IRという語からはそれを読み取れない。おそらくは、カジノが前面に出ないよう、IRなどという隠語を用いたのだろう。そもそもカジノはギャンブルであり、ギャンブルはもとよりわが刑法が禁じるところである。その禁を破れば犯罪を構成する。その犯罪に該当する行為を一転させて観光ビジネスの起爆剤にする。こんなことが今、建設に向けて進められているのだから、当然だが世論から反対の声が多い。だから隠語を使うのだと思う。

 報道によれば林市長はもともとIRの誘致に前向きだったという。ところが市長選で三選を目指すに当たり、選挙の半年ほど前に「白紙」に態度を変えたという。「前向き」は市長選挙で有利に働かないとの判断のもとに、とりあえず戦術として「白紙」を選択したものと思われる。その証拠に、当時の市長の姿勢が本当に「白紙」であって、しかも「市民の意見を踏まえた上で方向性を決定する」と本気で考えていたのであれば、このたびの方針表明までの過程で、広く市民の意見に聴き、それを集約する何らかの作業が行われていてしかるべきだが、そうした形跡は見られない。 

 なぜ市民の意見を聴くことをしなかったのかと言えば、そんなことは市長にとって必要なかったから、いやむしろ余計なことだっからであろう。既に心の中では「誘致の方針」が定まっていて、あとはそれを表現するタイミングだけが問題だったのではないかと思う。市長選挙の経緯に対する市民やマスコミの関心が薄れるタイミングである。そんな折に、なまじ市民の意見を聞いたりすれば、折角ほとぼりが冷めつつある時に敢えて寝た子を起こすことになる。まして、市民の意見が誘致に否定的であることが判明すれば市長は誘致方針を表明しづらくなる。記者会見の場で記者から「判断材料として市民の意見をどの程度聞いたか」という質問が投げかけられ「会合や普段の生活で、いろんな人の意見を聞いている」と答えたそうだが、噴飯ものである。この発言を説明責任という観点から評価すると、失礼ながら失格というほかない。

 言わずもがなのことだが、政治家には説明責任が求められる。公約など過去の発言と今日の言動との間の整合性は常に問われる。もとより選挙の際の「白紙」が「誘致の方針」変わることは当然ありえる。ただ、どうしてその方針に変わったのかについて、市民の納得がいく説明がなければならない。その際、「市民の意見を踏まえた上で方針性を決定する」との約束がどう履行されたのかは重要なポイントになるが、果たして先の噴飯ものの説明に納得し、理解を示す市民がいったいどれほどいることやら。

 林市長のこの無責任な態度には沖縄県名護市辺野古の埋め立てに承認した仲井前知事の態度と瓜二つである。仲井知事はもともと辺野古の埋め立てには賛成の立場であった。ところが、再選を目指す十年十一月の知事選挙では一転して、埋め立てに反対する考えを表明した。やはり「賛成」では選挙戦を有利に戦えないと踏んだのだろう。再選後の仲井知事はその任期の終盤になって、埋立て反対の公約を反故にして、埋立てを承認した。その重大な方針の変更について納得できる説明はなかった。強いて言えば、政府から十四年度予算の中で沖縄復興予算をふんだんにつけてもらったことに感謝する旨の発言をしていたので、それを方針変更の理由にしたかったのかもしれないが、それは公約を反故にする理由になり得ない。彼も説明責任を果たしていないのである。

 辺野古をめぐる政府と沖縄県との泥沼の紛争は、実にこの仲井知事の方針変更から始まった。その後、仲井知事から辺野古埋立てに反対する翁長知事に変わり、その翁長知事のもとで承認の取り消しなどの手続きが取られた。さらに翁長知事を引き継いだデニー知事が承認を撤回するに及んだが、これで物事は落ち着いたわけではない。やはり、県民の代表である知事がいったん承認した意味はそれほど大きいということである。

 では、横浜市はIRをめぐってこれからどうなるのか。辺野古のこれまでの経緯が、今後の横浜市の道行きにとって教訓や参考になるだろう。例えば、林市長のもとでいったん招致が決まれば、その後でたとえIRに反対する市長が登場したとしても、事態を元に戻すことは至難の業となるであろうことは辺野古の事情から容易に察せられる。辺野古と違う事情もある。埋立て承認は知事の専権事項だから、最終的には知事の考えで決めることができた。しかしIRの招致では今後市議会の議決を経て、市長が国に申請することとなる。今次の市長の「誘致方針」の表明は、未だ市の正式の意思決定ではない。正式決定の舞台は市議会である。

 その市議会がまともに機能するなら、誘致の是非を真摯に議論することになる。誘致が市にどんな功罪をもたらすのか。それは市の経済や財政に与える効果だったり、ギャンブル依存症への対応策や治安悪化に対する不安だったりする。カジノの存在が横浜の文化的、歴史的イメージにどんな影響を及ぼすことになるのかも真剣に論じられなければならない。併せて「市民の意見を踏まえた上で」との林市長の公約について、市議会は市長の説明責任を追求しなければならない。その際、多数会派が「与党」だから有那無那にするなどという態度をとるなら、市議会は行政監視という議会の重要な役割を放棄したことになる。市議会として失格である。

 そして問題はその「市民の意見」の把握と踏まえ方である。沖縄県では辺野古の埋立ての是非をめぐって本年二月に県民投票が行われた。その結果は埋立てを非とする投票の方が多かったが、それがすでになされた知事の承認の効力に影響するものではない。仮に県民投票が仲井知事による承認の前に実施されていれば、その後の自体は大きく変わった可能性はある。県民投票はタイミングを失くしていた。仮に、横浜市のIR誘致について、市民主導の住民投票であれ何であれ市民の意見を問うのであれば、それは市長が誘致申請の議案を市議会に提出する前でなければあまり意味がない。その結果、もし誘致を是とする市民が多ければ、市長は自信をもってその後の手続きを進めることができる。逆に、非とする市民が多ければ、市長は申請する議案を議会に提出することを躊躇するかもしれない。躊躇うことなく議案を提出したとしても、その後の市議会の審議においては、この「市民の意見」は重要な意味を持つに違いない。

 ともあれ、「市民の意見」を問うならばタイミングを失することがあってはならない。それは辺野古埋立ての貴重な教訓だと思う。

 

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