抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

強権

 

 橋下前大阪府知事の政治に関する考え方に危険なものを感じるため、以下三点指摘しておきたい。

 第一にその発想が善悪二元論であるということである。自分の考え方は「善」でそれに反対するのは「悪」という決めつけである。「選挙に勝って白紙委員をもらった」という名刺を引っ提げる彼は、自分の政策や意見に対して賛成か反対かという二者一択を迫るわけである。もちろん反対者は悪で、「嫌なら辞めろ」ということである。それ以上に彼が気に入らないのは、自由にものを考える第三者の存在である。彼が時々何の利害もない学者とか、評論家に牙をむくのはその証左である。橋下前大阪府知事にとって実は明確な反対者よりも、自由に物事を考えて発信する人間が煩わしいのであろう。ブログとかツイッターで口汚く批判しているのをみるとそう感じる。戦前もいわゆる左翼的な思想の持ち主以上に自由主義的な思想化が当局に目をつけられていたと聞いたことがある。単純な反対者は処罰することができるが、自由な発想の持ち主はそうもいかないということである。

 第二は、彼がよく主張する「政治にスピード感を」という言葉である。彼が矢継ぎばやに出した政策は確かにスピード感があり、メッセージ性もあった。それに比べて、国政レベルではスピードもメッセージ性も何もない。多くの国民もそう思っている。しかし政治にとってスピードとかメッセージがそれほど重要なことであるのかも疑問である。議論を尽くしてやっと決まる。あるいは結局決まらない。だが、時間がかかったり、決まらなかったりするのは問題がそれだけ難しかったりあるいは、意見が多様であったりということであろう。強権を持ってすれば早く決定するかもしれない。しかし問題の真の解決とはほど遠いことも多いのではないか。教育とか人権の問題は特にそうである。

 第三は、「全てを知り尽くした教師である権力者が、無知な市民を教育してやる」という考えがありありとでている。「啓蒙してやる」ということである。地方自治体の首長は統治するのではなく、住民の要望をいかにかなえていくかということに尽きる。心が行政になく国政に傾いているから言動が首長のそれを逸脱している。当時、大阪市の職員に向かっていた矛は既に市民に向かっている。

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