抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

「笑」が意味するもの

「ショックなことをお伝えします」「息子さんは同性愛者でした」。同級生からアウティング(他人から暴露されること)を苦して自殺した学生の遺族に対して向けられた、一橋大学の担当者の言葉だ。まるで同性愛者が嫌われて当然だとでも言うかのような、偏見に満ちた言葉だ。同時に、世間の人々の認識を反映しているようでもある。ホモ、レズは理解できない。気持ち悪い、そんな腹の底が透けて見える。

 社会における同性愛者の位置付けは、80-90年代のバラエティ番組において「オカマ=バカで気持ち悪い奴」と言う印象操作が‘行われたのと連動し、人気アニメなどでもたびたび笑いのネタにされてきた。実際、ゲイバーなどにいくと、なるほど「オカマ」は明るい、面白い。世間は、それ以上を知ろうとしないのだな、と思った。同性愛者が明るく振る舞うとき、彼らは常にギリギリの精神状態なはずだ。開き直っているように見えて、数々の差別に晒されてきた恐怖は見せまいと、別の自分を演じる。そうです、ホモです〜と戯けて見せる。だが道化とは、いつだって悲しい内面を隠すためのものだ。誰にも相談できず、途方に暮れている本当の姿を見誤ってはならない。

 アウティングされた学生も、グループラインでは「たとえそうだったとして何かある?笑」と返答している。「笑」がついているからふざけていると額面通りに受け取るのは、浅薄すぎる。ハラスメントは、いつだって「おふざけ」の形式で行われるし、「いじめ」と「いじり」は地続きである。「ホモキャラ」という世間が納得するような形でしか自分を表現できないことに、苛立ちを抱えている人も実は多い。

 それにしても、日本は本当に不思議な国だと思う。これほど「世間様の目」「社会の標準」が浸透しているのに、そこからはみ出した個人は、本人または家族だけで苦しみを抱えなければならない。人の基準をここまで管理しておいて、何のケアもない。それでいて、ほとんどの人が文句を言わない。個人責任としてしまい込む。

 ネタのように扱われ、世間が求める「明るい同性愛者」の範囲でしか彼らの生存を許さない社会では、真剣な議論は起きにくい。見たいものしか見ずに、「シリアスな話は個人的にやってください」と突き放す視野狭窄によって苦しめられた人達のことを思うと、この国の同性愛社を取り巻く環境は、この先も変わらない。

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