抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

政治家というもの

 

 子ども時代に文化大革命期をくぐり抜けたある中国人研究者から、「日本の政治を見ていると、まるで子どもの遊びのようだ」と言われたことがある。教室での発言一つで友人たちに糾弾され、指示する人を間違えたら排除され、命まで奪われかねないという厳しい時代、いかに本音を出さずに相手の本音を見抜くか、誰が信じられ誰が信じられないか、必死に観察し、孤独に考え、文革時代を生き延びたその研究者は、この度の黒川検事長の辞任をどう見ていただろう。

 片言隻句を突付いて騒ぎ立てるメディアも見るに堪えないが、それに動揺してたちまち職を投げ出してしまう政治家の軽さ、覚悟のなさに驚いてしまう。もちろん文革時代の中国のあり方がいいわけではない。しかし、例え血は流さずとも、洋の東西を問わず、政敵を説得し、脅しすかして壊柔し、あるいは見方を力づけ、ときに騙したりもして、力を込めてじりじり厚板を刳りぬくような作業を続けることこそが政治であろう。

 ある政治を実行すれば、権力の内部、周辺で権謀術算が渦巻く。それは、「悪人」が多いからではなく、それぞれに利害が絡んでいるからだ。既得権益が大きければ大きいほど、抵抗は大きい。「原子力村」という大権益集団を向こうに回し、脱原発政策を進めようというのなら、それ相応の覚悟と戦略が要る。世論調査の結果だけで政策が履行できるわけではない。そうした覚悟と戦略を持っている人を、ひとは政治家と呼ぶのではないだろうか。

 「東京大改革」を掲げて発足した小池都政は、反自民の改革者として振る舞い、全員野球の体制となった。しかし、政策的核もなく、政策的幅の広さ、といえば聞こえはいいが、そのバラバラさがそのまま政策に反映されただけではないか。全員野球であるがゆえの弱さといえようか。どの政権にも、目に見える成果を出したがるものだ。しかしどんな強い政権でも、多くを成し遂げることはできない。小池都政のように基盤の弱い政権は、優先順位を明確にすることが重要ではなかったのか。とはいえ、今となってはもう遅いような気もする。それなのに、また再度出馬をするというのだから、呆れてものが言えない。

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