抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

惨事便乗型資本主義

ショックドクトリンの本質について、その命名者であるナオミ・クラインは、次のように述べている。

「破壊的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域に一斉に群がるような行為を、私は『惨事便乗型資本主義』と呼ぶことにした」。

 ここでクラインが述べる「このような行為」とは、2005年にアメリカ南部を襲ったハリケーンカトリーナによる災害直後、たとえば共和党の下院議員が、低所得者向けの公営住宅は「さっぱり一掃できた、これぞ神の御業だ」と語ったようなメンタリティのもとで一気に進められた過激な民営化政策を指している。より敷衍して言えば、普段の社会状況では抵抗が強く実現が難しい政策課題を、発災後、人々が茫然自失の状態にあるうちに、一気に実現してしまおうとする思想・行為と言えるだろう。クラインの著作では、チリやロシア、ポーランドサッチャーのイギリスなどで遂行されてきた徹底的な公共領域の解体と民営化の諸相が追及されているが、現在のコロナショックのもと、日本の政治社会のもと、日本の政治社会の文脈で警戒されるべきは、市民の自由・人権の強権的な制度と、相互監視大勢のなし崩し的な拡大ではないか。
 それぞれの社会は固有の文脈を持つから、感染拡大の抑止のために「都市封鎖」を行ったり、外出禁止して違反者に刑事罰を与えたりすることの是非は、それぞれで議論され、検証されればよいと思う。ただ日本社会では少なくとも、そうしたことがなされうる法的証拠はない。戦時中の経験を思い出すまでもなく、行政が「お上」として強く捉えられがちなこの社会の思潮では、市民的自由を制限する行政の権限は最小限に留めるべきだと思う。
 小池都知事が「何もせずにこのまま推移すれば、海外のようにロックダウンを招く」という、誰が封鎖を実施するのかという肝心の主体を曖昧にした言い回しにするのは、法的根拠の不在を知っているからだろう。しかし、今行政がすべきは、強硬策で市民を脅迫することではなく、合理的・合法的な感染拡大抑止策の説明、確実な検査とデータの公開、そして医療体制の設備であろう。少なくとも小池都知事は「無駄のない医療」を掲げて推進する都立病院の独立法人化を見直すべきではないか。
 その小池都政の継続を問う都知事選挙が7月に迫る。国政野党は今回も都知事選での「共闘」を繰り返し確認しているようだが、政党の枠組みからではなく、小池都政の評価についての認識や、都民の生活の保障できる候補者、そして政策という点から、都民本位の議論を行うべきではないか。都政について何も知らないに等しい候補者を告示日前日に担ぎ出し、スキャンダルを暴かれて失速するという前回の失態をまさか忘れてはいないだろうが、現在の枠組み優先姿勢の姿勢には危惧を禁じ得ない。

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