風鈴の音が、いかにも涼しげなメロディーを奏でる。水を打った庭先からひんやりとした空気が気持ちいい。隅に置かれたうちわを手にして、ゆらゆらと動かしながら遠くに視線を送る。
日本の夏の古典的な光景だろうが、今の都会ではもうほとんど見かけない。こうした暮らしを拒否し、一丸となってモダンな生活を求めて突き進んできたのだから当たり前なのかもしれない。けれど、モダンといってもあまり分からないから、結局、隣の人たちを真似した。あっちを向いたり、こっちを向いたり、流行を追ったり、捨てたり、揺れに揺られながらもモダンな暮らしを追求した。そして、実現ができた。だから満たされたはずである。なのに、裏切られたような不甲斐さが漂う。
なぜなのだろうかと、ふと考える。地に足をつけてこなかったからなのではないだろうか、と。このことは口では容易いけれど、現実にはなかなか難しい。心が座っていなければ、周囲の言動に惑わされて自分の考えが定まらなくなる。感情任せに揺れていては、自信も持てないし責任感も沸いてこない。いつも、誰かが、何かが、羨ましい。
生活は派手になったが、内面の問題は置き去りにされ続けてきた。外側の包装を見栄え良くすることで、ごまかしながら突っ走ってきたようなものだ。心の奥を問わないまま、自分を騙し、暗示にかけながら、数十年間を過ごした。そしてその附けは、次世代に色濃く現れている。
地に足のつかない親や大人に育てられたのだから、当然かもしれない。けれど、彼らもまた確実に親や大人になっていくのである。