抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

維摩一黙

 

 出る杭は打たれ、空気は読まされる。

 

 伝統的体質とも言える日本の苦々しい雰囲気に触れたのは、マクドナルドの店員が「時給一五〇〇円」を求めてデモを行った前後のことである。大規模にフランチャイズ化したファストフード店は、学生にとって、ごくありふれたアルバイト先のひとつだ。時給は決して高くはないが、親元暮らしだったり、あるいは仕送りが定期的に届く環境では、そう贅沢さえしなければ生きていける。ただ、有識者らの「ファストフード店の労働にそこまでの価値はない」「もし店員も時給をあげたいなら、商品の値段に跳ね上がってくる」といった辛辣な反応には、めまいがした。また、私が学生だった時に受講したある講義で、教授が得意げに「憲法二五条は国の責務を問うものであって、企業による補償は想定していない」とデモを冷笑したことにも、割り切れない何かを感じた。

 あたかも静観している人々が大人で、デモをしている人が駄々っ子のような、嫌な空気感がそこにはあった。そしていずれの発言にも、デモそのものを否定できる根拠はないように感じた。単に「そういう面倒なことはしないの」と言っているに過ぎない。

 私たちは、労使関係をよく聞き間違える。特に生まれた時から「好況」に触れてこなかった世代は、「雇っていただいている身分で、文句は言えない」と口をつぐみ、悲惨な現実から目を逸らす。交渉して、戦い、健全な労使関係にしようとは考えない。「嫌なら辞める」とドライに世の中全体を諦めているような節が、どこかにある。ゆとり世代ならぬ悟り世代、などと言われるのも、おそらく無関係ではないだろう。

 しかしもっと根深い問題として、社会の目があると思う。それは、数倍の量の義務を果たさなければ恐ろしくて権力など主張できないような、厳しいものである。そして解せないのは、同じ労働者の中にも、「あいつは権利ばかり言っていて格好悪い」などと足を引っ張る人間がいることだ。「我慢が美徳」を歪曲して解釈した価値観が見受けられる。ファスト店の従業員は多い。にも関わらず問題が顕在化してこなかったのは、働く人にとってもファストフード店が一時的な止まり木に過ぎなかったことを示している。

 いま、コロナも助長して首相が自慢するほどには景気も良くならず、「いつかは」と思いながらこの止まり木に居続ける人たちが、弱々しくも声をあげている。しかし、依然として社会は冷淡である。渦中にいる人は日常に追われて愚痴をこぼしながらこき使われ、渦中にいない人は小難しい理論を用いて人々を納得させようとする。日本国憲法発足から七〇年が過ぎたというのに、本来高潔であるはずの条文が、弱者を隘路に込ませるまやかしのために引用されたことが、なんとも歯痒かしい。

 

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