抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

次の世代に何を残すのか

 

 戦後、時代の節目や何かのきっかけで「戦争責任」が議論されることがあったが、ここ数年その言葉すら聞かれなくなってきた感がある。昔、とある番組のドキュメンタリーで、主人公の男性が青臭い正義心で両親に「なぜ大人であったあなた達が市民として戦争を止められなかったのか」と迫り、時代背景などから個人で反戦を表明することは不可能に近かったことを弁明する彼の両親を攻め立てた場面を覚えている。

 しかし、満州事変や太平洋戦争といわれる第二次世界大戦、2000万人の外国人、200万人の日本国民を死に追いやり、沖縄の悲劇、広島長崎の原爆まで戦争を拡大し辞めようとしなかった者たち、機関の責任が消えるものではない。20世紀は「戦争の世紀」と言われるが、2011年以来21世紀の日本は「放射能の世紀」を生きることとなった。福島原発事故による放射能の被害、恐怖は、これから数十年、楽観的に見ても今世紀後半にならなければおさまらず、放射能の危険性は未来永劫続き、拡大拡散することもありうる。

 では日本国内だけではなく世界にも影響を与える原発事故の責任は誰に何処にあるのか。今はまだ、東日本全域にばらまかれた放射能、収束のめどさえ実際には立っていない破壊された原子炉、放射能廃棄物の処理など国を挙げて集中すべきだが、そのことと「原発責任、福島原発事故に至った責任」は切り離して考え、検証しなければならない。「原発責任」は電力会社にあるのか、政府や政治家か、核開発、原発建設を進めた科学技術者や原発建設に関わった企業か、それとも文明の利器を享受し原発を容認してきた国民か。それぞれ責任の重さは違うだろうが、誰か何処かに「原発責任」はあるはずだ。

 今はまだ幼き子どもたち、これから生まれる子どもたちが意思を持ち社会を考える世代になった時、「あなた達が大人であった時代に何故、原発を作り原発事故を起こしてしまったのか、あなたは原発を廃止し事故を防ぐ努力をしたのか」と問われた時に、私たちが答えを持っているだろうか、「そういう時代だった」と言い逃れるのだろうか。

 戦後半世紀以上経っても、「戦争責任」を曖昧にしているこの国は「原発責任」も曖昧にしたまま、これからの世代に放射能の脅威を押し付ける形で令和に入った。「原発責任」を曖昧にしたままでは、放射能の脅威を逃れることも、福島、被災地の真の復興もこの国の新たな地平も切り開けないのではないか。「戦争責任」は一億総懺悔とごまかされることもあるが、これは日本人すべての問題ではあるが、「原発責任」が1億2000万総懺悔で済まされてはならない。

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