抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

無辜のいのち

 

 北風が吹き付ける日々が続く。広い世界には銀世界の地も泳げる地もあろうが、ここ東京の路地ではまだ落ち葉が風に舞い、枝先の僅かな残り葉が光を反射しながら、別れを惜しむように揺れる。冬の日差しは短いけれど、照りつけると厳しい。気のせいか、肌が焦げていく強ささえ感じることがある。

 北風に身が縮むこの季節は毎度のことながら、昨今は、いのちが凍えてしまうような事件が少なくない。親が子を殺す現象は(権力争いの時代にあったそうだが)、平穏な時代の市井では、感情任せに我が子を殺してしまう行為はほとんどなかったに違いない。また、いじめやけんかの末に、子どもが子どもを殺す事態がこれほど多かったこともなかったろう。しかもいずれも「殺意はなかった」だ。

 親は子を、子どもは友を、心から憎く殺したいほどの感情を持っていたのか。ほとんどの場合、否だろう。かれらが驚くほど簡単に人間の生命を絶ってしまうのは何故だろう。

 いのちとは存在だと私は考える。いのちを尊ぶからこそお互いの存在が成り立つ。この二つの関係は切り離せない。ところが近年は、両者がバラバラの状態で受け取られ、悔いても悔いきれない「失敗」を犯してしまう。いのち=存在が気持ちの内側に備わっていれば、自ずと弱者を思いやって優しくなれるものだ。「人間は考える葦」であるからこそ、弱肉強食の本能を超えて、社会を構成できるのである。

 だが市場経済を勝ち抜くには、「弱者は邪魔だ」と扱われてきた。彼らをいたわる時間も惜しんで、経済の向上を重要視した。結果、日本は経済的な先端に立てた。だが、人間は採算性の奴隷となり、一本の釘のような存在でさえある。こうしたことが、一人ひとりの存在を軽くし、いのちの価値さえ掴めなくさせてしまった。

 いのちが絶えるときが死だという基本を、大人が子どもに、いや熟年層が若い人たちに、噛み砕いて語る必要があるのかもしれない。

 

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