抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

虚堂懸鏡

学習指導要領の一部改訂により、2019年(平成31年)4月から「特別の教科 道徳」が全国の中学校でも教えられるようになった。「明日を生きる」という教科書名と、「自分に自信が持てるようになる」という言葉が印象的だ。

自分が中学生だった時、教員と生徒の関係は今よりも濃密であった気がする。今それを求めるのは、現場職員の多忙な状況を思えば難しいだろう。教員と生徒の関係は今後広がることが予想される。

明らかに過大な業務と長時間労働に嘆く教員と、同様に過大な量の宿題に苦しむ子どもの姿が、明らかに過大な経済負担に苦しむ学生たちの姿に重なる。教育は誰のためのものなのか、何のためにあるのか、疑問は尽きない。

二度の悲惨な世界大戦を経て、反省したその時の大人たちは、国連教育科学文化機関を設立した。冒頭の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という言葉が多く引用されるが、その次に続く「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって、果たさなければならない神聖な義務である」という言葉も印象深い。

子ども自身を主体とする視点に乏しいという時代的制約はあろうが、少なくとも、小賢しい偽善的打算しかもたらさないのではないかと思われる現「道徳」のようなものとは雲泥の思想に裏打ちされていることが理解されよう。

思想の欠如。それこそ、教育政策だけではない。現政権の際立った特徴と思う。現政権から、国際的に通用する思想に裏打ちされた言葉というものを目にしたことはない。対照的な政治の言葉が、韓国の文大統領の演説での言葉だ。

「過去は変えられないが、未来は変えられる。力を合わせ被害者の苦痛を実質的に癒すとき日韓は真の親友になる」。過去の植民地支配にかかわる日韓の間の歴史問題について、あるべき基本的な構えはこの言葉に尽きるように思う。

だが、この言葉受け止めて応答すべき何らの思想も持たない現政権の反応は、文演説で触れられている犠牲者の人数に嚙み付くという、およそ考えうる限りもっともマンガ的なものであった。無思想と冷笑の政治、そして労組弾圧のような強権政治が長く続く中で、何を言っても仕方ないという無力感が広がり、それが少しずつ、この社会の民主主義を根腐れさせていってるように思われてならない。

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