抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

病んだ社会

昨今の無差別殺事件での加害者の「誰でもよかった」という言い方に私たちは何を読み取ったらいいのだろうか。その背景には漠然とした不安や言葉にできない苛立ちなどがあるのだろうが、私には彼らの自己の存在に対する言いようのない軽さをその根底に見る。「人生に嫌気がさした」とか「親に叱られた」とかいう言い訳の幼稚さは、実は自己の存在感の薄さの表明以外の何ものでもないように思える。子どもがあっさりと昆虫を踏みつける、あの幼稚的残忍さと酷似しているように思うのだ。表れに表れた残虐性は自己確立をしそこなった人格の表出ではないのか。
 他方自殺者が先進国最悪レベルであると報じられた。報道によれば、うつ病、負債、生活苦、職場の人間関係等自殺に到る「危機要因」はお互いに繋がっており、会社員なら「配置転換→過労や職場の人間関係悪化→うつ病」といった経路が古典的だという。ここには個人の存在の軽さを思い知らされる日常がある。会社は人を自由に動かし、代替要員もいつでも確保できる現状は、人を大事にするという考え方の対極に今という時代があることを示している。自己の存在に対する確信を徹底的に壊される今という時代。そうした中で前者は他人への無差別殺傷という方向に向かい、後者は自死という方向に向いている。両者は正反対の方向を向いているのだが、その病根は「自己の存在のどうしようもない軽さ」というところに共通の根を持っているのではないか。
 生まれてすぐ競争社会に投げ込まれ、ほとんど小学校段階ですでに序列が確定している社会。その格差が縮まることは決してない。いやむしろますます広がっていき、何かにつけ、「人間の違い」を徹底的に刷り込まれていく。「人間の能力は遺伝子によってきまる」「もともと格差はあるもので、それがあたりまえ」というような考え方が何の疑問もなしに受け入れられる地盤が広範に作られてきているのだ。みんなで協力して政治を変えようとか努力は報われるなどという言葉ほど現実を反映していない妄言はないと思えるのだ。
 カンボジアでは労働者が企業に団結して自身たちの労働環境を良くするために行動を起こしているという。国の最低賃金の上昇は縫製工場で働く人たちのレベルに沿って上昇している。日雇い、派遣などの使い捨ての労働の現状が今の若者の共感を得ているというが、そこに溜まっていてはダメなのだ。現状を自分たちの力で変えるんだという意識、変えられるんだという経験、それには「自己の存在への愛着」が不可欠だし、「他者殺傷」と「自死」を防ぐ鍵にもなる。現状に打ちひしがれ、協力して何かを成し遂げるという経験の乏しい若者に私たちはどう迫っていったらいいのか。カンボジアの縫製工場で働く労働者から学ぶべき視座は多い。
 無差別で無辜の命を奪った小島は「謝罪すると情状酌量で罪が軽くなる」と法廷での謝罪を拒んだ。病んだ日本の社会から見たカンボジアはやけに眩しく見えた。

 

f:id:ogrenci:20191212200930j:image