抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

同化を強制する日本型社会

 

 これほどまでに女性の活躍を謳っておきながら、日本という国ほど旧態依然、古い考えに縛られている国も珍しい。海外の勤務から戻ってきた日本は、より窮屈に感じられるようになった。職場でも家庭でも、より女性が働きやすくなるヒントはあるのに、ひとたびそれを指摘すれば、「さすが、海外を知っている人は違う」などと言われ、意識高い系と妙に嘲笑にさらされる。

 たとえば、「会議の準備は女性社員だけでなく、男性社員も入れて行うべきだ」という意見のどこに、海外にいたかどうかが関係してくるのだろうか。出る杭は打たれる。これが、社会の閉塞感を増させているというのに。

 少し前に、ある女性教員が、職場(学校)での旧姓の使用を求めて訴えを起こし、敗訴したというニュースを目にした。女性は、「教員のキャリアでは一貫した性を使いたい」という、至極自然な感情のもと、学校側への訴えを起こしていた。判決は、旧姓の使用を認めないことを「違法な侵害であると評価することができない」というものであった。もちろん、こうした訴えが聞き入れられなかったこと自体、非常に残念ではあったが、より驚いたのは、この判決を聞いた人たちの反応である。冷静に判断しようとする声のなかに、少なからず「結婚したくせに、旧姓にこだわるなんて」「この女性は、相当な変わり者だよ」といった誹謗中傷に近いコメントもあったからだ。

 いまだ多くの女性が、結婚をして性を変え、戸籍名を名乗っている。その現状に背くものは扱いにくい変なやつだと。最近、旧姓の使用を願う女性に対して、「大好きな人と同じ性になれるのに、なんで嫌なの?ふつう、嬉しいでしょ」という若い女性のつぶやきを目にした。しかし、結婚やパートナーとの生活に憧れを抱くことと、旧姓使用を訴えている女性たちの声は、全く別である。

 昔よりもはるかに多くの女性が社会進出をしていることを受け、司法側も「夫婦別姓」については議論を進めなければならないという姿勢である。しかし、私たち自身が、これまでの「ふつう」や常識に縛られて、改革していこうとする者を出る杭として扱い続けるのであれば、社会は成熟していかないだろう。

 こうした現状に触れるたびに、いったいいつになれば、日本は女性の活躍に向けて建設的な議論ができるようになるのだろうかと暗い気持ちにさせられる。たかが名前、されど名前。多くの人々に自由な選択肢が用意されている社会であってほしいと願う。

 

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