抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

LGBTへの理解

 管見する限り、LGBTという言葉は、私が生まれてきた時代にはなく、2000年代後半から日本でも一般化してきたらしい。そればかりか、先輩の話を聞くと80年代には「ホモ狩り」になるものがテレビのバラエティ番組で放送されると、「男なのに男が好き」は一種の罪であるかのようにさえ感じられたという。もちろん法律上、日本において同性愛が犯罪とされたわけではない。しかし、犯罪者とは全く異なるレッテルが貼られ「頭のおかしいやつ」「どんな病気を持っているかわからない」と面と向かって言われたことも一度や二度ではない。自分自身が同性愛者であるということを両親にカニングアウトした時は、心臓が口から飛び出しそうであった。同時に、犯罪を犯しているわけではないのに、「許しを請う」立場でいることが悔しくて歯痒かったと彼は語ってくれた。

 同性愛者が置かれたそうした状況は、同性愛への理解が深まったように見える現代においても、少しも変わっていない。それは一橋大学で起きたアウティングによる自殺事件を見れば明らかだ。同性愛者が声を上げ、徐々に市民権を得たかに思える昨今においても、社会で生きる同性愛者の孤独は緩和されてなどいない。日本が持っている同性愛者に対する本音が露骨になったのは3年前の9月の国連人権理事会においてだった。「同性愛行為が死刑の対象となること」への非難を8カ国が訴えた。今、世界では6カ国ほど、同性愛が死刑になる国がある。こうした人権侵害への切実な訴えに対し、日本は反対を表明した。他に反対した国にはアメリカ合衆国がある。

 日本の用意した建前はいかにも幼稚であった。日本は死刑を存置する国なので、「死刑廃止・モラトリアムを目論む決議には賛成できない」立場とするもの。しかし、先ほどの提案国は「死刑の廃止・モラトリアムの義務づけ決議ではない」と明確に説明していた。死刑そのものの議論ではなく、適用方法をめぐっての議論であるにもかかわらず、日本は条件反射的に死刑を堅持しようとした。いや、もっと悪しきシナリオとして、条件反射的にアメリカ合衆国に追随したのではないかと疑ってしまう。

 日本社会においては、同性パートナーシップ制度など、一定の広がりを見せている。しかし国際社会に対して、日本は同性愛を「万死に値する」と言い放ったのも同然だ。様々な価値観の違いを対話によって乗り越えていく社会が成熟した社会であるならば、いかに先進的な精度を整えようとも、今の日本は未成熟社会だと言わなければならない。

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