抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

良き理解者でありたいと願う

小学生の頃、まだ本を読むという習慣すらできていないのに、図書委員会というだけで半ば強制的に参加させられた読書会。与えられた短編すら四苦八苦しながら読んだ記憶がある。
 時が進むうちに想いが変わる。私が持っていたのは「ここが面白い」という程度の感想だった。だが、高校の時に参加した読書会にて、参加者から出てくるのは一つの面白い、ではなかった。十〇人いれば違う面白いが存在していた。まさに言葉のシャワーを浴び続けた二時間。読書という観念がひっくり返され、思い切りかき混ぜられたようだった。
 読書というのは、一人静かに読み、深めていくことだと思われがちである。それも妙味。読書の一面だと思うし、そんな読書も好きである。だが、自分と他人との「好き」を見比べ、ぶつかり合い、共感する。「ああ、こんな表現もあるのだなあ」と感心する。そして作品の根底にある想いや感情を引っ張り出す面白さ、こうして自分は読書と日本語が好きになった。
 今、活字離れという。いま、高校教育の国語から文学作品が削られつつあることも聞いている。仕事がら子どもの教育に関わることが多いが、皆、本を読むことが嫌いだという。彼らの経験する読書とは、学校で感想文を書かされ、それを評価されることだ。つまり自分の感じたことに良し悪しをつけて、序列化されるのである。これで「本を読むことを好きになれ」と言われても、無理だろう。
 読書会が静かなブームという。でも割と年齢層は高いのではないだろうか。十〇代の早い時期に、本を通じてワイワイとトークする。主人公と一体になったり、敵になったり、この人はこうなって欲しいと願ったり。読書は多くのことを与えてくれる。若い人に、もっと自由に本を読み、語り合って、本を読むことを好きになってもらいたい。
 この国の私教育の位置を取り直しつつ、課題の多い教育の問題について良き協力者でありたいと願う。

 

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