抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

権力者の驕り

 

参議院選挙の公示前後に、様々なメディアで各党の党首討論が行われた。そこで目立ったのが、自由民主党安倍総裁の異様な態度だ。

 「原発に新増設を認めないか」、「選択的夫婦別姓を認めるか」といった質問に、挙手によるイエス、ノーを問われた安倍首相は、「印象操作だ」として挙手を拒否した。ほかにも、決められた発言時間を守らずに、制止されても発言を続けたり、問われたことに答えず、関係のないことを延々と話すなど、与党の総裁あるいは一国の総理とは思えない子どもじみた態度には、呆れかえるしかなかった。

 「イエス、ノーで問うのは印象操作だ」と言うが、有権者が知りたいのはまさしく党首のその問題に対する「イエスかノーか」だ。それ以外の理屈を知っても、特に選挙のような状況ではあまり意味がない。安倍総裁自身が自身の政策に自信を持っているのなら正々堂々と「イエスかノーか」で答えればいいと思う。

 「印象操作だ」と安倍総裁は言うが、有権者は党首や立候補者の「印象」でしか評価しようがない場合がある。少なくとも、それを避けようとする安倍総裁の「印象」は最悪だ。これに限らず、気になるのは、安倍総裁のメディアに対する姿勢だ。

 特に自分に対して批判的と思われるテレビなどに出演するときは、最初から喧嘩腰というか、対決姿勢が露骨に出ている。逆に自分の考えを支持してくれるメディアに出るときは機嫌がいいし、質問にもきちんと答えている。いやいや出演している番組との落差は驚くばかりだ。

 しかし自民党の安倍総裁は、一方では日本の安倍総理大臣でもある。自身の好き嫌いによるメディアに対する差別は、有権者から見ると不愉快であり、怖い。メディアに対する露骨な差別は、自分を支持してくれるか支持してくれないかによって、国民を差別することにもつながるのではないか。

 二年前の東京都議会議員選挙の応援演説中に自分を批判する声に対して「こんな人たち」と言った姿を思い出す。批判に反論するのはいい。しかし批判者に対する権力者の露骨な敵対意識は弾圧と変わらない。長期政権の驕りとしか言いようがない。

 

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