抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

不本意非正規労働者

日本の労働市場における問題は多くあるが、非正規雇用の増加はその中の大きな一つだと言える。「人に雇われている人」のうち非正規の割合は38%を占め、パートで働く主婦や学生アルバイトを除いて、正規で働きたくても働けず、やむなく非正規で働く人が700-900万人存在する。こうした不本意正規雇用は、正規雇用と比較して給与水準は低く社会保険への加入も限られる。


雇用の流動性が低く、新卒一括採用を基本とする日本の企業において、スタートラインが正規か非正規かの違いは大きく、特に20歳代のキャリア形成に大きな影響を及ぼす研修や教育の機会を、非正規の人は奪われている。大きな仕事を任される正気職員と、単調な仕事を続ける非正規職員の賃金格差は年を追うごとに広がり、昇給や昇進にも大きな差がつく。

 

さらに心配なのは1000万人近い非正規の人が将来低年金、無年金に陥る可能性である。厚生年金保険に加入したとしても、報酬比例部分は正規の人と差が大きく、現役時代の賃金格差が定年後も年金額に反映される。非正規の人は賃金が低いため未婚率も高く、将来身寄りのない一人暮らし高齢者となる可能性が高い。今後AIの普及や外国人労働者流入に伴って、スキルの乏しい不本意正規雇用の失業率は一気に高まる。ホームレスや生活保護に頼る人が増えるのが心配だ。


一億総中流は50年代から60年代にかけての過去の話で、今の日本は超格差社会に入りつつあるのではないか。それなのに安倍首相は非正規雇用の増加には触れず、総雇用者数の増加をアベノミクスの成果として声高に主張する。


目先の景気浮揚に頭がいっぱいで、喫緊の課題を先送りにする安倍政権がこのまま継続していいのか、国民一人一人の学習能力が問われている。

 

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マイノリティを守る社会に

高等教育の就学支援制度が文科省から出された。その中のQ&Aが今議論を醸し出している。

Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。

A 大学院生は対象になりません。( 大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)

一言で言うと「同世代は働いているのだから、院生には支援はしない」ということだ。

教育統計学や教育開発学の世界では、一般的に教育を受けたことによるアウトプットの量は、教育を受けるにつれ逓減していくといわれている。これは初等教育中等教育で受ける基礎的な教養が、高等教育で習得する専門的な知識よりも実生活に基づくと考えられているからだ。その意味において、彼らの就学への機会や質を高めるため、今回、大学院生が支援の対象から外れたとするならば、それは仕方ないことだと理解できる。しかし、文科省の回答は全く異なる。彼らの考えは「同世代はすでに働いており所得を得ているのだから、働いていない君たちには支援しない」ということだ。

就職活動をしている友人の女性は、面接では毎回のように「なぜ女性なのに大学院に進学したのですか?」と質問されると言っていた。「その研究に社会的な意義は本当にあるのか」と問われた友人もいる。大学院という研究機関に対する社会の認識はまだ少ない。

先々月、大学院に進みたいという学部生達と話をしていた。その中の一人が科研費が減ってきている現状を受け「院生を対象とする支援制度がこれ以上減ってしまえば私は進学できません」と力なく言い、一瞬笑いが漏れたが、その刹那、みんなが真顔になった。そしてその不安が現実となった。

SNSでは、現大学院生や支援から漏れた学部生達から絶え間ない不安の声が上がっているという。皆、何をしたらいいのかわからないけど、居ても立ってもいられないのだ。そういう不安を時代が抱えているのだと思った。しかしながら問題の大きさに比べ、社会の関心の火種は小さい。

表現者は自粛し周囲は矮小する不気味な時代になった。当たり障りのない言葉が権力に最も喜ばれることをみんなが覚えている。

 

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そして友好の呼び水となった

 

カンボジアの500リエルには日本国旗「日の丸」が描かれている。カンボジアの観光地ではどこもドルで支払うことができるが、国の通貨はリエル、紙幣とは国の象徴なのになぜ日本の国旗が印刷されているのかと不思議に思った。

カンボジア第二次世界大戦を経てフランスから独立した。しかしその後もベトナムから侵攻され、さらに長い内戦の中で、ポルポト派による二百万人以上ともいわれる自国民虐殺という不幸な歴史を経験した。その後国連が主導し、十九カ国の仲介で停戦になったのが1991年。国連カンボジア暫定統治機構の活動、93年の選挙を経て平和が回復し、ようやく復興が始まった。

日本は戦後復興協力として道路や橋、生活インフラ設備の役割を担った。それに対する感謝の気持ちが、500リエル紙幣の日の丸になったように思う。カンボジアは近年、外国からの投資により9%台の成長を続けている。人件費が安く若年労働力を安定的に確保できるため、日本企業の進出は過去5年で数倍に増えた。中国からの投資は更に顕著で首都のプノンペンや観光都市であるシェムリアップには日本食、中国レストランが何百件もある。

首都のプノンペンには日本のイオンがある。店舗数190店と大型で、オープンから三年半でカンボジア人口1500万人を上回る1700万人の来客があり、買い物客の大半はもちろん現地人だ。「若者は王宮の丘でメコン川を見ながらデートして、イオンに行くのがトレンド」と聞いた。日本の投資は現地で好意的に受け止められ、イオンは既に郊外に二店目を計画中だそうだ。

カンボジアは日本のPKO派遣第一号だ。全土が腐敗した内戦の終結を確認した上で、国連の一員として道路、橋、病院等のインフラを建設し、難民を輸送し、地雷を撤去し、民主的選挙の実施を見届けた。

ただ当時から「国連主導のカンボジア復興協力に日本が何も貢献せず、復興後に日本企業が進出し、アンコールワットが日本の観光客であふれる等、平和の果実だけに預かろうというのは身勝手すぎる」との政府の主張を、国民世論も理解していた。

あの時の日本が「国際責務」として決断し、カンボジア復興を援助した結果、いま、「現地生産→対日輸出」という形で経済面でも日本が利益を受けている側面は否定できない事実だ。500リエルに印刷されている「きずな橋」は両国は相互で繋がっている事を意味し、日の丸も印刷されている。一方、あの時「戦争巻き込まれ論」を唱えた野党第一党は雲散霧消状態で、今その存在を探すのは難しい。500リエルに印刷された日の丸は日本とカンボジアの歴史の象徴でもあるように思う。

 

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平仄を合わせる

 

1970年までカンボジアは、東南アジアの立憲君主国に過ぎなかった。そこに60年代からエスカレートした米軍のインドシナ侵略により混乱が飛び火し、70年には親米派の軍人ロン・ノルによるクーデターが起こり、シアヌークは国王の座を追われた。その後、フランス留学中に「マルクス主義」の影響を受けたポル・ポト、イエン・サリらを中心としたカンボジア共産党らが軍種的指導権を握る形でカンボジア民族統一戦線が結成され、75年には全土がロン・ルノから解放された。しかしながら、彼らはおよそ初歩的な社会科学の知識すら持ち合わせず、中国の文化大革命の影響を受けたともいわれる「革命理論」を持ち込み、知識人を中心に200-300万ともいわれる自国民を大虐殺した。現在の京都府の人口ほどである。

その後、クメール・ルージュに反旗を翻した軍の幹部らを中心に、ベトナムの支援を受けたカンボジア教国民統一戦線がベトナム軍とともにポル・ポト政府を打倒した。しかし当時の中国をはじめ、タイ、米国はポル・ポト政権の残党を陰に陽に支援し、カンボジアの悲劇をその後も助長させた。そして、日本政府がこれらの残党が国連でなおも議席を維持することに腐心したことを忘れてならないだろう。すなわち、ポル・ポト政権によるカンボジアの悲劇を引き延ばしにしたのが、誰であろう当時の日本政府であったのである。

もちろん、今のフン・セン政権が、かつての救国戦線の当時の理念を引き継いでいるとは到底言えまい。それゆえ、日本政府には現在のカンボジアに対しては、慎重にも慎重を期する対応を求めたい。そしてそのことは当時、ポル・ポトを中心とした民主カンボジア支援に回った、日本の一部の市民団体や政治勢力にも言えることでもある。

 

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教育の質に関する指標

 

本記事では教育の質に関する基本的な指標を解説する。

 

生徒教員比率

定義:ある年度のある教育課程における教員一人当たりの平均的な生徒数。

公式:生徒数 i/教員数i

 

この指標は多くの場合教育の質の指標と捉えられているが、場合によっては公共支出の効率性の指標としてとらえられることもある。一人あたりの教員が抱える生徒数が極端に多ければ、生徒一人当たりに割ける時間や注意が少なくなり生徒の理解度の把握が下がるという問題がある。この生徒教員比率がとりわけ高いのが途上国の初等教育である。また一方で、効率性の指標という概念は逆に生徒教員比率の非常に低い国で使われる傾向がある。例えばある国の初等教育の生徒教員比率が20名であったとする。これは1人の教員が平均20名の生徒しか受け持っていないことになり、例えば40人いた場合、教員が2人必要になる。教員数が増えるということはそれだけ給料に支出する割合が増えることになり、結果として資金の非効率な利用ととらえられる。つまり、教育の質を向上させるために教員数を増やすことは、教育財政とのキャパシティとのトレードオフである。

 

レベル別の比較をする場合に注意すべきなのが、初等教育とその他のレベルでは教員配置のシステムが異なっている場合が多いということである。初等教育の場合、クラス担任制を採用しているケースが多く、1人の教員がすべての教科を教えている。しかし中等教育以上になると教科担当制に切り替わり、一つのクラスを科目ごとに複数の教員が担当することになる。よって必然的に必要とされる教員数が増え、初等教育よりも、生徒教員比率が低くなるケースが多い。

 

クラスサイズ

定義:ある年度のある教育課程における1学級当たりの平均的な生徒数。

公式:生徒数i/学級数i

 

クラスサイズが大きくなるということは1学級の在籍生徒数が増えることであり、あまりに生徒数が多すぎると教室内での混乱や、教員の注目が届かなかったりとこう行くの質が低下すると考えられている。しかし、生徒教員比率と同様に、これは効率性とのトレードオフでもある。クラスサイズを小さくすればそれだけ同じ生徒に対する学級数が増えるため、教員の数を増やさなくてはならなくなるし、二部制にするか教室を増やすなどの方法で場所の確保もしなければならなくなる。

 

有資格教員割合

定義:ある教育課程において、全教員に対する有資格教員数の割合。

公式:有資格教員数/全教員数×100

 

日本は教員試験があり、基本的にはそれに合格しないと教員になることができないが、途上国の多くのケースでは高校卒業程度の学歴でも教員になれる場合がある。インドの農村部では、初等教育で教育を終えた大人が教員になっているケースもある。特に就学率の低い途上国の国では大学卒業以上の学歴を持っている人がほとんどいないため、高校卒業の資格でさえ、高学歴になるためである。しかし、高校卒業の学歴では正規の教員養成学校を出ていないため、無資格教員として登録されることも多い。つまり有資格教員が多いということは、きちんと教員としての訓練を受けた、もしくは大学卒業以上の学歴を有し、しっかりとした学術的な知識があることを意味している。

 

教育の質を向上させるために有資格教員の割合を増やせばいいというのは正論であるが、必ずしも有資格教員を増やす政策だけが全てではない。というのも、無資格教員は有資格教員とは異なる給与体系によって給与が支払われていることが多い。つまり、教育計画を行なっている側の観点からみると、無資格教員は低い人件費で教員を調達できるための有効な手段である場合もある。教員の質を見る場合、有資格教員の割合のみに着目するのではなく、有資格とはどのような基準なのか、経験により無資格教員が有資格教員となることはできるのかなどを必ず確認してから、分析を進めるようにしたい。

 

年間授業時間

定義:ある学年において、一年間に生徒が学習する時間

公式:なし

 

UNESCOの研究によると授業時間が生徒の学習達成度に大きく影響していることが示されている。世界銀行のレポートによると、初等教育において適切な授業時間は850時間から1000時間と報告されており、UNESCOもこの数値を採用している。UNESCOの世界120カ国程度を対象にした研究によると、世界平均で1年生は689時間、6年生で819時間、9年生で908時間となっている。この分析において重要なのは、予定授業時間と実際の授業時間はたいていの場合異なっている点である。これは学校が様々な理由で閉鎖されたり、教員の欠席やストライキなどの理由で必ずしも予定通りの授業時間数が消化されていない場合が多々あるためである。また、カリキュラム上の授業時間はたいてい1コマ45分や50分など、必ずしも60分授業を一コマとしていないため、たとえ週30時間という風に記載があっても実時間でいうと23時間くらいしかない場合もあり、1コマ何時間なのかを確認しておく必要がある。

 

また資金の効率性と教育の質のトレードオフとして議論に上がるのは二部制、三部制の学校において、授業時間が少なくなることである。二部制にする理由は国によって異なるが、多くは生徒に見合うだけの学校数が足りていないため、全生徒に教育を与えるために、やむをえず二部制にするケースである。この制度についてここでは議論しない。

 

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教育内部効率性に関する指標

 

この記事では教育統計指標の中で、内部効率性に関する指標を解説する。内部効率性とは教育を受けることをインプット、卒業してからの課程をアウトプットとして考える。そして最小のインプットで最大のアウトプットを出すことが一番効率的であると考えられる。この教育システム内の効率性を内部効率性というのに対し、教育過程を修了した卒業生が社会経済的にいかにアウトプットを出すかという概念を外部効率性という。以下で内部効率性に関する基本的な指標を紹介する。

 

留年率

定義:ある年度のある学年に所属する生徒数から、翌年も進級せずに同じ学年に留まっている生徒の割合。

公式:(t+1)年のi年生の留年者数/t年のi年生の在学者数×100

 

留年率は内部効率性を測る上では重要な指標となる。同じ生徒に同じことを繰り返し教えるということは教育システム上非効率であり、留年率は0%に近づくほどよい。留年率を測るためには2年間にわたる生徒のフローのデータが必要となるため、データ入手の際には確認が必要となる。留年率が高い理由として一般的には、授業のレベルが高く学生が理解できていないことや、教員の質の問題が考えられる。また国によっては、日本もそうだが、自動進級制度を設けている国もある。自動進級制度は内部効率性の観点から言えば有効な政策ではあるが、生徒の理解度をしっかりと確保しない限り、形だけで中身の伴わないシステムになってしまう。

 

退学率

定義:ある年度のある学年に所属する生徒数から、翌年は進級も留年もせずに学校を辞めてしまう生徒の割合。

公式:(t+1)年のi年生の退学者数/t年のi年生の在籍者数×100

 

退学率は連続した2年分の生徒数、留年者数のデータを入手することができればその差が必然的に退学者数となるため、たいていは留年率を計算する際に同時に計算することができる。当然ながら数値は低い方が良い。退学には学年途中での退学、学年修了時点で落第したため留年をせずに退学、また同じく学年終了時に進級する資格は得たがさまざまな事情でやむをえず退学するケースがある。本来はこれらは異なる性質のものであるが、多くの途上国では退学に関してこのような厳密な分類がされていない。途上国で一般的に見られる生徒の退学は、主に貧困の問題が背景にあると言われている。しかし、イエメンのケースを例に挙げると、落第した場合、男子児童は留年することが多いのに対し、女児児童は退学するケースが多い。1992年にWhiteがインドで行なった質的調査では、男児は将来の稼ぎ頭として見なされているのに対し、女児は将来の負担だと捉えられていることを報告している。留年は内部効率性の観点から見ると、効率的ではないがそれでも教育を受ける機会が与えられているのに対し、退学をしてしまうと、再度就学する教育ことは非常に困難となる。

 

進級率

定義:ある年度のある学年に所属する生徒数から、翌年はその上の学年に進級する生徒の割合。

公式:(t+1)年の(i+1)年生の進級者数/t年のi年生の在籍者数×100

 

去年度1年生に100人の在籍者がいた場合、数人は留年し、数人は退学し、残りは進級する。つまり、進学率と退学率、留年率を足し合わせると100%になる。また学校や県レベルの進級率等を計算する場合、転校生の存在も確認すべきである。転校生の有無によっては必ずしも100%とはならない点に留意すべきである。

 

進学率

定義:ある年度のある学年に所属する生徒数から、翌年はその次の教育課程に進学する生徒の割合。

公式:(t+1)年の(i+1)レベル1年生への進級者数/t年のiレベル最終学年年生の卒業者数

 

進学率はシステム間の進級率と理解することができ、例えば、初等学校から中等学校への進学ということである。国によっては初等教育の最後に学習到着理解度を測るテストがあり、それにパスしない限り次のステップには進学することができない。また初等教育修了時点で修了証明証が発行され、初等教育資格が認定されるとそこで教育を終えてしまう児童も多くいるため、進学率は他の学年の進級率と比べ低くなることがある。また進路はいくつかある場合にも注意が必要だ。例えば中等教育を終えた生徒は大学進学や就職以外にも職業訓練校や短大へ進学する可能性がある。当然ながら、進学率の内訳として、大学、短大、職業訓練学校の各学校への進学を明確にすると、その国や県の進学パターンをより深く理解することができる。

 

残存率

定義:ある教育課程において、ある年に1年次に入学したコーホートのうち上の各学年へ進級する割合。

公式:同じコーホーとから最終的に卒業までたどり着いた生徒数/1年生に同時に入学した同じコーホートに所属する生徒数×100

 

残存率は多くの国で初等教育の1年生に入学した子どもが初等教育の規定学年に修了できないため、1年生に入学した児童のおよそ何%が退学せずに教育システムに残っているかを見ることにある。進級率が各学年間の移動を見るのに対し、残存率はシステム全体を見ることが多い。計算の仕方は、まず、1,000人の学生が1年生に入学したと仮定する。もし1年生から2年生への進学率が90%であれば、2年目、2年生に進級した生徒数は900人である。2年生から3年生の進級率が同じだとすると、3年目3年生に進級するのは810人である。また留年率が各学年5%だと仮定すると、2年目に1年生に残るのは50人で、3年目はそこから90%が進級するため、3年目に2年生にいるのは45人でと45人で90人となる。そして仮に退学率が5%だとすると、50人が1年目を終えた時点で退学し、2年目の2年生からは45人、1年生に留年したものの中からは3人が退学する。このようにして、最終的に何人が卒業するのかを算出するのである。

 

この算出にはいくつかの仮定が必要だ。まず、当初入学したコーホートは進級、退学、留年の3つのうちいずれかの進路のみに進むため、システム外へ流出、もしくはシステム外からの転入というものがないと仮定される。2つ目は、進級率や退学率が何年目においても一定であると仮定されていることだ。3つ目は、この手法においては、計算上同学年を何度も留年することができる。4つ目に、このコーホートにいる全員がシステムを終了するまで、すべての率は変化しないということが仮定されている。

 

卒業生あたりの就業年数

定義:生徒がある教育課程を修了するために平均的に必要とする年数を留年、退学といった非効率性を考慮して計算したもの。

公式:規定年数+j年間の留年生のために費やされた総生徒年/規定年数j年間の留年生を含んだ期間の卒業生数

 

この指標からは、現在のシステム下で、一定数の卒業生を生み出すのに必要な資源投入と留年や退学のないシステム下で同数の卒業生を生み出すのに必要な資源投入とを比較することにより、その資源の効率性がわかるというものである。一言で言えば、非効率がいくらあるのかを考える指標なのである。本来6年制の小学校は生徒全員が6年間で終了するのが理想だが、実際は留年者が多く出る学校では卒業するのに7年や8年といった時間を要する。例えば就業年数が7年になると1年分余計に人件費がかかり資源が非効率であると言える。当たり前だが、規定の就学学年に数値が近ければ近いほどシステムの効率がよいと考えられる。この指標の注意点としては、早期に下の学年で退学したケースの方が上の学年で退学したケースよりも投入が少ないため、より効率的だと計算されてしまうことである。

 

効率性係数

定義:卒業するための理想的な就学年数を実際の平均的な就学年数に対する割合として表したもの

公式:理想の就学年数/実際の平均的な就学年数

 

例えば規定就学年数が5年間である初等教育課程で、もし平均的な就学年数が10年だったとすると、1人の生徒に本来費やすべき時間や費用の2倍を生徒側も学校側も費やしいていることになる。この場合本来の効率性の2倍の出資をしているので、効率性係数は50%ということになる。留年や退学が多くなれば多くなるほど、1人の卒業生を輩出するのに余分な労力がかかっていることなり、効率性係数は下がる。留年率と退学率のどちらが大きく非効率性に影響を与えているかという点に関しては、留年者は卒業時期がズレても卒業する可能性は残っている。一方で退学者は卒業する可能性がなくなる。したがって、卒業生を何人生み出すかということを基準にすれば、非効率性が高いのは当然退学者が多い時である。

 

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教育統計指標解説

 

本記事では教育統計指標について、それがどのように計算・使用され、その指標はどのような意味を持つのか基礎的な部分を解説を含め紹介していきたい。以下で紹介する指標は、世界銀行やUNESCO、OECDなどでもよく使用される指標であるため、知っておくとその国の教育問題をより解明に浮かび上がらせることができるだろう。なおここでの指標はUNESCOの定義・公式を使用する。

 

粗就学率

定義:ある特定の教育過程において、年齢に関係なくその教育過程に属している生徒数の、その教育過程に属すべき公式年齢の人口に対する割合。

公式:対象学年就学者数/当該年度学齢人口×100

 

この指標は人口に対してどのくらいの子どもが学校に行っているかを簡単に示すことができる。国によって学齢人口の定義等が若干異なる点には留意が必要だ。年度が暦年と異なる場合、例えば学齢人口は2006年と表記されているのに対し、就学人口は2005/06年就学者数や2006/07年就学者数として表記されていることが多い。OECDやUNESCOが共同で作成しているデータ収集マニュアルには、基本的には1月1日時点での人口データを使うとあるが、実際途上国においては、明確な出生日がわからないことが多く、1月1日のデータといっても正確なものは存在しない。よって一般的には2005/06年度であれば、エンドイヤーの2006年人口を使うことが多いようであるが、スタートイヤーである2005年の人口を使っている国もある。

 

二つ目の留意点として、人口統計で国勢調査などをそのまま使う場合、5歳、10歳、15歳といったきりのいい年齢の人口が極端に突出している場合がある。

 

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ネパール2011年人口ピラミット

n(n+1)

i=1ni2
n(n+1)(2n

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インドネシア2000年人口ピラミット

 

 

 

ネパールの2011年人口ピラミット、インドネシア2000年人口ピラミットでは”きりのいい年齢”の人口が顕著に高くなっている。出生登録などの発達していない途上国では大まかに区切りのいい5歳、10歳などと申告するケースが多々あるためである。これにより、学年別就業率ではある特定の学年のみが極端に就業率が低いなどのイレギュラーなケースが起こりうるため、その場合は前後3歳の平均値を使うというようにならす作業 が事前に必要となる。

 

粗就学率は基本的には高い方がよい。しかし、これは分母には年齢指定がなされているが、分子の生徒数にはそれがないため、本来12歳の子が通うべき学年に13歳や15歳の子が通っている場合もカウントされ、粗就学率は100%を超えるということもありうるのである。

 

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こちらのグラフは2015年時点におけるコスタリカ初等教育の粗就学率である。数値が安定的に100%を超えていることがわかる。安定的に超えている理由としては、多くの児童が何度も留年をするなどして初等教育のシステム内に年齢の高い児童が留まっている可能性が考えられる。粗就学率が100%を超えた場合、こういったマイナスの要素が存在する可能性も検討する必要がある。またグラフの推移をみると、1985年以降、グラフは上昇を始め、1998/99年に顕著に上がっている。このような著しい伸びにはなんらかの国の政策や情勢が背景にある可能性が示唆される。例えば、マラウィのケースでは、1994年に初等教育が無償化されたためにそれまで学校に行けなかった子どもが一斉に就学し、粗入学率は93年の89%から134%に一気に上昇した。これは授業料が原因でこれまで教育の機会がなかった子どもに対し、教育の機会を与えたということで肯定的に見ることができるケースである。

 

純就学率

定義:ある特定の教育課程において、その教育過程に属すべき公式年齢に属する生徒数の、その教育課程に属すべき公式年齢人口に対する割合。

公式:対象年齢の就学者数/当該年度学齢人口×100

 

粗就学率に比べ100%を超えることがなく、高ければ高いほどよいという非常にわかりやすい指標がこの純就学率である。この指標に関する注意点としては、データの入手が困難であるということだ。通常どの国でも生徒数を記録する調査や生徒の登録がなされたりしているが、必ずしもそれらの記録に各生徒の年齢までは記録しておらず、そういった場合、純就学率を計算することができない。また申告された年齢に関する情報の信ぴょう性も必ずしも高いとは言えない。

 

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2015年時点で世界全体の初等教育の純就学率は90%に達していない。現在は2019年であるため、現時点では90%を達成している可能性は考えられるが、あくまで世界全体で見たときである。国別に見ると、得られるデータに限界はあるが、アフリカのナイジェリアでは2010年時点で64%、インドでは2013年時点で93%、オーストラリアでは97%であった。(School enrollment, primary (% net) | Data)

 

年齢別就学率

公式:就業年齢にかかわらず、特定の年齢における就学人口の、その年齢の総人口に対する割合。

公式:当該年齢の就学者数/特定の年齢人口×100

 

この指標を一言で言えば、各年齢の人口のうち何パーセントが就学しているのかを見る指標である。どの学年に就学しているかは関係ない。この指標は特に児童婚が多い国や子どもがある年齢になると労働を強いられるコミュニティーなどで何歳ぐらいの子が退学しやすいかを発見することができる。また初等教育の1年生になるべき年齢が6歳なのに6歳の年齢別就学率が50%の場合6歳児の半数はスタート時点から遅れをとっており、6歳から全ての子どもが学校に行けるように改善する必要があると理解することができる。

 

例えば中東諸国では、思春期を迎えた女性児童は学校に行かせてもらえないというケースが多々あるが、生涯識字力の習得に必要であると目安にされている初等教育5年次終了をすべての子どもに提供するということが国家目標である場合は、必ず6歳の時点で1年生に入学させないと、多くの女子児童が5年生に達する前に思春期を迎えドロップアウトせざるをえなくなるケースが生まれてくる。

 

粗入学率

定義:生徒の年齢に関わらず初等教育一年生に新たに入学した生徒数の、初等教育一年次に就学すべき公式人口に対する割合。

公式初等教育1年生入学者数/初等教育1年生になるべく公式年齢人口×100

 

粗入学率とは初等教育入学者すべての人数を1年生に入るべき公式年齢人口で割ったもので、本来予測されるべき人口に対し、何%の生徒が入学したかを見ることができる指標である。粗入学率は年齢に関わらず、全新入生を、対応する公式就学年齢人口で割ったものである。様々な理由で6歳時点で学校に行けなかった歳上の子どもが入学してくる場合があり、粗就学率同様、100%を超えるケースがある。

 

純入学率

定義初等教育一年生の公式年齢で初等教育一年生に新たに入学した生徒数の、初等教育一年次に就学すべき公式年齢の人口に対する割合。

公式初等教育1年生入学者数のうち公式年齢人口/初等教育一年生になるべく公式年齢人口×100

 

純入学率は粗入学率の公式の分子となる新規入学者を、分母と同じ年齢のみに絞り込んだものである。よって100%は超えない。留意点として、規定の年齢よりも若くして入学したものが留年し、規定年齢で再び1年生に在籍している場合、本来純入学率には含まれないが、データの取り方によっては含んでしまっている場合もある。

 

学年別就学率

定義:ある特定の学年において、就業生徒の年齢にかかわらず就学している全生徒数の、その学年に所属すべき公式年齢の人口に対する割合。

公式:対応する学年の非留年者数/特定の年齢人口×100

 

この指標はUNESCOにもOECDの教育統計ハンドブックにおいても記載されていない。したがって、学年別就学率の分子にその学齢人口に対応する学年の全生徒の割合を使うか、非留年者数のみを使うか、しばしば解釈の分かれる場合がある。また、前述の粗入学率は学年別就学率の初等教育1年生と同じと考えることができるため、学年別就学率の全学年分を計算すると、自ずと粗就学率も計算される。当然、その学年の就学者数のみでなく、留年者数も必要なので、データを入手可能であるかは事前に調べておかなければならない。

 

初等教育終了率

定義:その年に初等教育の最終学年を修了した生徒のその最終学年に対応する年齢人口に対する割合。

公式: t 年における卒業生数/t年の最終学年対応年齢人口×100

 

この指標はただ学校に在学しているということだけでなく、しっかりとその課程で学びび最終学年を終了することにフォーカスを置いた指標である。基本的な考え方は、その課程の1年生に入学した者の何%が最終学年を修了したかということであるが、厳密なデータの入手は困難な場合が多い。また、生徒の登録や学校調査などは基本年に一度しか行われないため、年度始めにそれが行われるとそのうち何人が修了したかが記録されない。次年度のデータでは、進級した生徒は修了したことを証明できるが、退学した児童においては、修了してから退学したのか、修了できぬまま退学したのかは不明である。データの入手が比較的容易であることがアドバンテージであるが、実際の卒業生の

人数を使用した修了率とは若干のズレが生じてしまう。

 

 

教育統計学 基礎編―「万人のための教育」に向けた理論と実践的ツール

教育統計学 基礎編―「万人のための教育」に向けた理論と実践的ツール

 

 

本稿はこちらの本をメインに解説させていただいた。

 

次回は教育の内部効率性に関する指標を取り扱う。

政治が追いかけてくる

香港に限らず、人々は政治から離れたくても政治が追いかけてくる。逃れられない。生きることも老いることも、衣食住といった生活そのものが政治なのである。公平や合理性を決定づけるのは制度で、それを決めるのが政治。国家権力と市場と社会の三者が均衡しているのが正常な状態だが、香港は均衡を失っている。人々は団結して組織を作ることを許されない。

 

市民社会を作ることを封じられてしまうと、人びとは価値や理念の問題を考えず、物質的な利益を追求してしまう。権利に目覚めるのは自らの権利が直接侵された時だと思う。今の若者を批判して済む話ではない。上の世代も政治に関心を示してこなかった。経済成長が覆ったとも言える。環境を決めるのは制度である。自分で決められる範囲が狭いと、人々は自由を放棄し、責任も放棄してしまう。

 

国家の権力を制限し、個人の権利を守る。憲政の基本だが、これが今、香港には必要だ。

 

 

 

 

苦難の歴史を経験しているか

 

朝鮮戦争終戦に向かう1953年に曽祖父母は祖父母を連れて広島にやってきた。祖父母は日本で学校に通うことになったが、当時から排他主義であった同級生からいじめを受け、閉塞感を抱え、そしてそれを乗り越えて声を上げることの難しさを、時おり涙を受けべながら話してくれた。これに対して自分は、朝鮮戦争終戦から今日に至るまでの苦難の歴史を知らない。母親が韓国籍であるがゆえに差別を受けた経験がなく、今でも自分の母親が韓国籍であるということの実感も、その血が入っているという感覚もない。

 


様々な権利をめぐっていがみ合い、分断された社会をみて育った祖父母は、「外国」という言葉を聞くだけで拒否反応を示す。

 


苦難の歴史を耐え忍んできた戦後世代の思いは深く、そして厳しい。自分を含め世の中の学生は、シニアに負けず劣らず勉強はしている。だが、問題を突き詰めていくと、知識というより苦難の歴史を経験しているか、いなかの情念の差に行き着いてしまう。知識なら勉強を重ねれば追いつくが、歴史だけは追体験するわけにはいかない。世代間の軋轢の根深さは、そこにある。

 

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学歴がないと起業しても上手くいかないのか

 

学歴がないと起業しても上手くいかないという意見があったが、自分は起業に学歴は関係ないと思っている。起業してから数回ほど経営者が集まる食事会に参加したが、中卒こそいなかったが、高卒の人はぼちぼちいた。みんな稼いでいた。

 

しかし割合として起業する人は学歴が高めだとも感じた。大卒でも上位の大学を卒業している人が多かった。なので結論、学歴がないと起業して上手くいかないという意見は間違っている。

 

一方で、学歴がある人とない人ではリスクの取り方に違いが出ることも分かった。別言すると、学歴がない人は起業するにあたって、それ相応のリスクを負わなければならない。取るリスクの大きさが違うのである。起業して成功する確率にもまた違いが出る。もちろん学歴があった方が、色んな意味で成功する確率は確実に上がる。矛盾しているようだが、この意味においては学歴は大いに関係がある。

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虚堂懸鏡

学習指導要領の一部改訂により、2019年(平成31年)4月から「特別の教科 道徳」が全国の中学校でも教えられるようになった。「明日を生きる」という教科書名と、「自分に自信が持てるようになる」という言葉が印象的だ。

自分が中学生だった時、教員と生徒の関係は今よりも濃密であった気がする。今それを求めるのは、現場職員の多忙な状況を思えば難しいだろう。教員と生徒の関係は今後広がることが予想される。

明らかに過大な業務と長時間労働に嘆く教員と、同様に過大な量の宿題に苦しむ子どもの姿が、明らかに過大な経済負担に苦しむ学生たちの姿に重なる。教育は誰のためのものなのか、何のためにあるのか、疑問は尽きない。

二度の悲惨な世界大戦を経て、反省したその時の大人たちは、国連教育科学文化機関を設立した。冒頭の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という言葉が多く引用されるが、その次に続く「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって、果たさなければならない神聖な義務である」という言葉も印象深い。

子ども自身を主体とする視点に乏しいという時代的制約はあろうが、少なくとも、小賢しい偽善的打算しかもたらさないのではないかと思われる現「道徳」のようなものとは雲泥の思想に裏打ちされていることが理解されよう。

思想の欠如。それこそ、教育政策だけではない。現政権の際立った特徴と思う。現政権から、国際的に通用する思想に裏打ちされた言葉というものを目にしたことはない。対照的な政治の言葉が、韓国の文大統領の演説での言葉だ。

「過去は変えられないが、未来は変えられる。力を合わせ被害者の苦痛を実質的に癒すとき日韓は真の親友になる」。過去の植民地支配にかかわる日韓の間の歴史問題について、あるべき基本的な構えはこの言葉に尽きるように思う。

だが、この言葉受け止めて応答すべき何らの思想も持たない現政権の反応は、文演説で触れられている犠牲者の人数に嚙み付くという、およそ考えうる限りもっともマンガ的なものであった。無思想と冷笑の政治、そして労組弾圧のような強権政治が長く続く中で、何を言っても仕方ないという無力感が広がり、それが少しずつ、この社会の民主主義を根腐れさせていってるように思われてならない。

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民主主義が終わりを迎える日

 

二月に行われた沖縄県民の民意を問う県民投票では辺野古移設反対が71%となった。憲法九五条には、地方自治体への特別法の制定には、住民の過半数の同意が必要だと定めている。この条文の精神に照らして、県民投票の結果を無視し移設工事を強行するのは違憲ではないかと指摘する声もある。しかし、政府の姿勢は変わらない。それはなぜだろうか。そこで思い出すのはニーメラーの警句だ。ナチスドイツによる迫害を生き延びた人が後世に伝えたかった言葉である。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声を上げなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃した時、私のために声を上げる者はいなかった」という言葉である。

 

日本の内地に住む住民は沖縄の事実だから米軍基地とは関係ないから他人事にはしていないだろうか。沖縄の声に対して、自らのことだったらという想像力を働かせず、思考停止していないだろうか。それが、国民の間に分断を生み、その分断につけ込んで強権政治がはびこっているのではないか。沖縄だけではない。福島原発の除染処理で発生した放射線物質やトリチウム水の問題は福島だけの問題だろうか。報道規制は望月記者だけの問題だろうか。高騰する大学授業料は学生だけの問題だろうか。一部の当事者だけが直面している問題は多い。そうした問題に対し、当事者のみではない人間が声を上げていくことが、強権手法をはびこらせない対抗策ではないだろうか。そうしないと自分が当事者になった時、ともに立ち上がる人は誰もいなくなってしまう。

 

問題から目をそらさせるような報道ばかりが行われているとしても、昨今の移ろいやすい国民性には危うい思いを禁じ得ない。

 

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当たり前の自由がなくなる日

 

新しく越してきたアパートの近くに読書カフェがある。コーヒーを頼むと店に置いてある本を読むことが許される。店には常連客の人たちが読書会を開催するなど、聞くところによると、毎週日曜日の朝は各々が好きなテーマを持ち寄って世間話をする場所にもなっているそうだ。
先週の日曜日に店に立ち寄ると、途中から私の祖父と変わらぬ年齢の老人が入ってきて、私たちの会話に聞き耳をたて一言「戦前を見ているようです」と呟いた。参加者の年齢層が比較的高い我々でさえ、その老人が呟いた言葉の意味が理解できなかった。その老人が店を去る際に置いていった一冊の本を皆で流し読みすると、彼が呟いた言葉の意味が少しだけわかったような気がした。

いま、民主主義が静かに殺されようとしている。誰も戦前のように貧しい暮らしをせず、汚い食べ物を口にせず、電車では皆が当たり前のようにスマートフォンを片手に没頭し、ゲームや動画鑑賞を楽しんでいる。それでも、官邸にマスコミは手の上で操られ、政権を告発した人々は追放され、誰も権力を監視しない。

去年、京都駅の前で秘密保護法のデモに参加した時、私と同じく初めてデモに参加した人たちがいた。皆、何をしたらいいのかわからないけど、居ても立ってもいられなかったのだ。そういう不安を時代が抱えているのだと思った。
あれからいまだ、安倍政権は続き、去年は共謀罪が成立した。本来ならば審議にいくら時間を費やしても過ぎるはずはないはずなのに、法案成立から逆算した結果ありきの討論に終始した。

茶店で常連の一人が「ここでやっている読書会も共謀罪で引っかかりますね」と力なく言い、一瞬笑いが漏れたが、その刹那みんなが真顔になった。

再度明るみに出た家計学園問題で、「政府への不信を招いた」とする安倍首相の会見は、実質的には何も謝らない空虚な言葉の羅列だった。利己的で権勢欲の強い者が、それを包み隠そうともせず、それを恥とも思わずに、自分に弓を引く人間を闇に葬っていく。そこにプライドを微塵ももたない。

私はこれまでの自民党政権を積極的には評価していないが、それでも否が応でも評価する部分もあった。今の自民党は、それ以上下はないというレベルにまで堕ちてしまった。

私の言葉は所詮一億分の一であり、発する言葉は遠くへは届かないが、だが、これまでの無自覚と無責任が積み重なり今日の安倍政権を誕生させたのではないかと胸が痛む。誰でも、何歳からでも、身近な人と社会について話し合える時間と場所を持てるゆとりが、日本にはできればいい。

桜の木はそうした時代を横目に今年も見事な花を咲かせた。この木のように素直な社会になればと、入学式の桜を眺めた。

 

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就活中のセクハラについて

大企業への内定を有利に進めるためには、現場で働く社員を訪問するOB訪問がカギを握ると言われていた時代から、今はそれが絶対条件になってきている現状がある。そうした流れにシフトしてきて以降、毎年のように女子学生がセクハラの被害を受ける事件が報告される。

2016年には、トヨタ自動車の系列企業の大手部品メーカーの採用試験を受けた元女子大生が、当時の同社幹部男性から合格と引き換えに不適切な関係を迫られたとして損害賠償訴訟を起こした。

2017年には大林組の幹部が内定をちらつかせ女子学生を酩酊させホテルに連れ込んだ。まもなくこの学生は内定を得たが、その後も強制的に関係を迫られていた。

そして2019年に入った今年、5大商社の一つである住友商事の職員が、居酒屋で女子大生に一気飲みを強要し泥酔させ、女子大生が予約していたホテルに侵入し性的暴行を加えた。

大手で起きた問題という理由で事件は大々的に明るみに出たが、今この時期この瞬間にも被害に遭っている女性は少なくないだろう。以下、男性が持つ誤った認識について3点指摘しておきたい。

セクハラという行為に「減るもんではない」とする意見について。

セクハラは精神的なダメージが大きい。ゆえに暴力の痕が可視化されにくく、見えないところで被害者が受けた痛みの深さを知る必要がある。「セクハラ」という短縮形の言葉の軽さにも注意が必要だ。太ももや腕を触られて抵抗をすると「減るものではない」と言われることがある。これは間違いである。減るのである。何が減るのかというと、自尊心が減るのだ。相手は自分の個性や魅力ではなく、女性という属性のみに着目して性的な扱いをする。そのように扱っても構わない存在だとみなされている。そのことが行為を向けられた女性の自尊心を損なうのである。

「強要はしていない」という主張について。

加害者の主張として「私は強要はしていない」というものがある。その主張自体は嘘ではない。なぜなら、彼らに強要をする必要はないからだ。就活生と飲んで、自分が会社で持つ権限を話して、食事の後に「じゃあホテルに行こうか」と言えばいい。「誘いを断れば内定は出さないぞ」と口で言わなくとも、学生には十分伝わるのである。だから彼らに自分が「強要した」という自覚がない。立場を使い権力を振るっているという自覚がないのだ。

「合意」があったという主張について

加害者の主張の中に、行為自体には「合意」があったとするものがある。しかし彼らの主張する「合意」が実は「同意」でしかなかったと言えると思う。合意と同意という言葉の違いについては、合意が「意思が一致すること。両性の合意。合意に達する」と辞書には載ってあり、一方で同意は「他の人の意見に賛成すること。計画に同意する」と書いてある。つまりは、合意は両者の意見や意思が合致したものであり、同意はどちらかの意見に対し一方が賛同するといった意味の違いがある。

言うまでもないが、就活という構図の中では、支配する者と支配される者という立場に分かれ、決して両者が対等な立場で話すことなどできない。そうした背景がある中で、「合意があった」といった主張は筋が通らない。

 

日本は99%以上が中小企業であり、大手企業は見本となるよう先陣を切ってフェアに採用活動をするべきである。大文字の「権力」だけが権力ではなく、さまざまなところ、ミクロなところにも権力関係がある事を社会全体が認識できるまでにあと何回誤りを繰り返す必要があるのだろうか。

 

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The new world of Artificial Intelligence

Since the turn of the Twenty-First Century, technology has immensely advanced. A drone which has free access to space, a self-driving car which was initiated by Google, Robotics which act like human-beings and AI (Artificial Intelligence) that can possibly replace humans in terms of work. In 2018 Japan, has shown the attitude the future society that should aim for by the call of the government is referred to as “Society 5.0.” Society has begun from Society 1 to Society 4 which include the following stages.

Society 1: Hunting and Gathering Society. Meaning that hunting of wild animals and plants is the foundation of society. Until the time when Agrarian Society was started, all human beings belonged to this society. 

Society 2: Agrarian Society. It is the next stage of Hunting and Gathering Society. To make a long story short, it is a society whose economy is made up of farming. In the previous society, it would only be a limited people that can be a member of a group. In such society, to make foods is not a simple task but very unstable. In contrast, in Agricultural Society, food can be harvested according to the size of the group and there is no limitation of the size of a group. Under this society, the population has drastically increased. 

Society 3: Industrial Society. It is a society in which industrialization has progressed. Generally speaking, it is the society created after industrialization. In this era, the introduction of machines exponentially raised productivity. Social hierarchy was created and the gap between the poor and the rich became large. Primary education became compulsory and literacy rate as well as human knowledge had drastically improved. It led to growth of the economy and raised labor wages that human capital theory is often rooted in. 

Society 4: Information Society. Information has the same value as various resources, and it is a society that functions mainly around that. We were born in the gap between the industrial society and the information society. Including you and I as well as the rest all over the world who writes this essay. Living in the era between the information society and the next stage I later explain as “super smart society” today. In this era, a large amount of information is constantly being produced, accumulated and propagated by rapid information processing by computers and wide-ranging information transmission by various communication media. In this era, if people do not judge with appropriate information, they are surrounded by excessive information and can not make an appropriate judgment, and indeed, many people make judgments irrevocable with erroneous information. The American Presidential Election is the most significant example. Quality poverty status has often observed that there was a lack of useful information for concrete decision making. 

Society 5: Super Smart Society. This is the future stage where cyber space and real society are highly integrated. In Japan, we aim for realization by 2020. AI (Artificial intelligence) is expected to play an important role in this super smart society. While I hear the voice welcoming the arrival of AI, there are also many voices that are seen as pessimistic. In particular, in recent years, many discussions have been made on themes such as "jobs disappears due to the arrival of AI.”  About this point in this essay, I would like to give a viewpoint to the theme "human and AI". Needless to say, a number of experts share similar knowledge with similar themes. As myself touched on many articles of the kind, I would like to take advantage of my nationality as being Japanese to provide unique knowledge. 

Well, although the talk diverges a little, Japan has produced many animations that are recognized around the world such as ; “Dragon Ball Z,” “One Piece,” and more recently “Attack on Titan.” Among them, "Doraemon" written by Fujiko Fujio and "Cyborg 009" written by Shotaro Ishinomori. Both of these anime characters are characters developed by science and technology development as well as machine civilization. Although, these two characters have something in common in that they are far apart from human beings, in reality they are essentially and completely different characters. These two characters give a very important hint to think about in future society. Let me introduce it below. 

Doraemon: This anime is a work depicting the strange everyday life a cat-shaped robot "Doraemon" that came from the 22nd century and the elementary school student Nobita, who fails everything. Doraemon has a lovely personality, but it is still a robot, its essence is a "machine.” 

Cyborg 009: This anime is based on the equilibrium of nuclear fears by the US-Soviet conflict in the 1960s. The secret cartel BG of the military industry (the black ghost) is the "future line plan" at the end of the greedy desire of death merchants. The leader of the BG organization developed 9 cyborg soldiers whose remodeled bodies could endure the battle under the nuclear war. Those chosen cyborgs with overwhelmingly increased arm strength and running power were created by the power of machines, but their essence is "human.” 

The difference between these two machines is divided professionally as "robot paradigm" and "cyborg paradigm.” The former is an idea of "to make the machine demonstrate overwhelming ability,” the latter is the idea of "to enhance human ability by using science technology and opportunities.” The difference between these two paradigms becomes an extremely important point of view when considering the future science and technology with human relationship. This is because AI (Artificial Intelligence) is going to spread to human society at the same time as this "robotics technology.” 

Let me give a prominent success story about AI. AI 's challenge in the field of intellectual games such as Chess, Shogi, and Igo has been drawing attention as a "confrontation of knowledge between humans and computers.” In the world of Chess IBM's computer won the then world champion in 1997. Even in Shogi the example continued, the computer won a professional match after 2010. However, since then the board surface is wide, the game development and patterns are more complex. Even superior Go software has been considered amateur level so far, it has been considered impossible to win against professionals even with the most advanced AI technology. However, the UK venture company Deep Mind Company in the United States of America joined pro for the first time in the world "Go" which was computer software developed by the company in the winter of 2016. 

Even in the field of business and academic research, we are now replacing the work that human beings have been performing. In Japan, artificial intelligence "Higashi Robo-kun" is aiming to break through the entrance examination of the University of Tokyo by 2021. It will challenge the University entrance examination simulation center exam of the famous entrance examination vocational school. Where it will aim to improve the results of mathematics which was not good. East Robo-kun recorded a deviation value of 58. Although, it was still far from passing by the University of Tokyo standards, they received findings that the possibility of passing at 33 Universities and 441 Private Universities in Japan is over 80%. In the field of business, at the Nikkei newspaper, the Japanese economic newspaper, Goldman Sachs' traders had previously enrolled 2,000 people, but now there was an article that it was two people. This is a very conspicuous number, and some occupations say that, not only in the trader's world, but also in multiple professions the same work force was replaced by AI, in fact most of them were already taken by AI. 

Furthermore, even now when experiences of experienced taxi drivers and police officers, such as which aisle where passengers can pick up customers and crime in what area, are experienced, they become replaced with artificial intelligence It is coming. Perhaps as many people think, I also think that in the coming era, many of the work that humans have done so far will be replaced by Artificial Intelligence. 

But I want to ring one alarm bell here. Due to the remarkable development of such Artificial Intelligence, there will be some people who think that "Artificial Intelligence is not good, Artificial Intelligence deprives people of work and the future is pessimistic looking.” These are fears and those who perceive Artificial Intelligence as being conflicting to humans. But I think like this. Something that we need in the coming era is whether or not to look at Artificial Intelligence based on either of the "robot paradigm" or the "cyborg paradigm" mentioned earlier. 

In other words, whether to capture AI as "computer with overwhelming intelligence" or "technology to overwhelmingly expand human intelligence", that is, not an AI but an IA( Intelligence amplifier) "intelligent expansion technology" It is questioned. Today as well, the thought about human beings and AIs in conflict with people around the world, arguments such as "people who can survive by artificial intelligence, people who can not survive" are overflowing, nevertheless there is something to think before that discussion. That is the recognition that the essence of AI "Artificial Intelligence" is nothing but IA as I described  "intelligent expansion technology". 

Indeed, AI will be an excellent secretary in business, becoming an excellent research assistant in academic research, and becoming a good partner who always gives intellectual stimulation to people involved in intellectual creation. Then, before the era of the Artificial Intelligence revolution, human beings should decide "Human ability is deep enough to measure even with state-of-the-art science and technology" It will not. Humans and AI are not enemies but friends. 

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