抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

綻び

ドナルド・トランプ氏が多くの予想を裏切り当選してから早くも4年目を迎えた。彼が大統領に決まった時、直感的に「気持ち悪い時代になった」と思った。日本のメディア・有識者の多くは「まさか」を繰り返し、事態に対応し切れていないように思えた。かくいう私自身、トランプ氏の当選は予想外の結果であり、彼の当選は世界にとって受け止め難いことであった。かといって、彼が大統領に就任する可能性がゼロだったかというと、そうではない。ヒラリー・クリントン氏と二分した投票数は、当選確実が報じられる直前まで逆転に次ぐ逆転で伯仲した。

 それでも、あまりに攻撃的で毒々しい彼の振る舞いと発言を目にするたびに、「こんな人が超大国のリーダーとして選出されるわけではない」と、どこかで不安を押し流して来た。彼が次期大統領になることが現実になった時、アメリカ社会の大きなうねりと、それまで表面化してこなかった鬱憤に、アメリカはもちろんのこと、世界中の多くの人が触れたような気がする。

 大統領選出直後に行われた会談を終え、安倍総理は「信頼できる指導者」とトランプ氏を評した。ややもすれば選挙の過激な発言が実行されかねないギリギリのところに立たされていて、気後れしている様子が透けて見えた。実際、トランプ氏が当選して以降の安倍総理の言動は、常にトランプ氏を意識したものであり続けている。

 「メキシコ移民は徹底的に排除する」。人権をまったく無視したトランプ氏の演説は、一部で「道徳的に言ってはならない本音を代弁してくれた」と歓迎された節もある。移民の流入によって疲弊したアメリカ経済の不満堆積を可視化したことは大きい。これまで選挙の恩恵に与れず、蔑ろにされてきた白人中間層を選挙へ向かわせた功績もあるだろう。しかし、自由や民主主義の信条に、「世界の警察」を自負してきたアメリカは瓦解したのではないか。差異を認め、受け入れることで成長してきた国が、レイシストと受け取られて仕方のない言動を繰り返す者をトップに選出したこと自体、悪い意味で特徴的である。

 グローバリゼーションを掲げる陰で、不満を募らせる人がいた。そして世界は、どんどん息苦しく狭いものになってきた。アメリカファーストを支持するトランプ氏が当選したことで、世界は窮屈で貧しい時代を迎えるのではないかと思った。そして、そのほころびは既に現れている。

 

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時代と雇用

兵庫県宝塚市が「就職氷河期」世代を対象に、正規職員を募集したところ1600人を超える応募が集まったという。選ばれたのは4人ということから倍率は400倍である。ここから分かるのは、30代半ばから40 代半ばまでの世代が、今も失業や劣悪な雇用環境に苦しんでいるという現実である。

 「就職氷河期」という言葉が広まったのはアジア通貨危機や消費増税の影響でデフレ不況に突入した1998年頃からだ。業績悪化に直面した企業は新規採用を大幅に絞り、非正規社員の割合を増やすようになった。その後、2000年代半ばには雇用環境が改善するが、リーマンショックの発生で新規採用が再び絞られてしまう。

 その弊害は、今や明らかだ。結婚適齢期に収入機会を奪われた層が生まれたことで、少子化が一気に進んだ。企業の年齢構成は歪になり、人事に支障をきしているところも出てきた。バブル世代があまりに気味な反面、氷河期世代が極端に少ないので、組織の中核を担うべき人材が圧倒的に不足している。

 世代間の技術継承の問題もある。30-40代がこっそり抜けているため、上から引き継ぐべき技能が引き継がれていない。経営者は慌てて採用を増やしているが、キャリアや技能は急には形成できない。10年以上に渡って新規採用を抑制してきたために、世代間のバランスが完全に狂ってしまったのである。

 新自由主義者は、就職に失敗するのは自己責任だと烙印を押す。実に浅薄な考えという他ない。氷河期世代が就職に苦しんだのは、バブル世代や今の新卒世代に比べて、努力や能力が足りなかったからだろうか。そんなはずがない。学校を卒業した時期が、運悪くデフレ不況と重なってしまった。それだけの違いである。

 氷河期世代では、キャリア形成の最も重要な時期にその機会を奪われてしまった。最大の原因は経済政策の失敗である。デフレ不況を放置し、公務員の数を減らし、規制緩和で雇用の質を引き下げた。政策がその逆のことをやっていれば、「失われた世代」など生まずに済んだはずである。

 日本は人口比で見た公務員の数が、他の先進国と比べて極端に少ない。高まる行政需要に応えるためにも、公務員の数を増やすのは急務と言える。宝塚市のように、財務状況が苦しい中で氷河期世代の雇用を増やすのは立派である。しかし、本来は国が率先してやるべき事業ではないのか。緊縮財政の間違ったイデオロギーを捨てさえいれば、「失われた世代」を救済する手立てはいくらでも見つかるはずである。

 だが、政府支出によって雇用を増やすことはできても、失った時間を戻すことはできない。本来、技能を蓄積しキャリアを積み上げていくべき時期に、その機会を失われるがままに放置したことのツケは、これから社会全体で支払うことになる。

 国家は世代の連続体だ。一つの世代が「抜けて」しまうと、その影響は社会のあらゆる方向に及ぶ。この過ちを繰り返すべきではない。今後、リーマンショックのような経済危機が再び襲来しても、若者の雇用だけは守らなければならないのだ。

 

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実に奇妙な判決であった

自分の息子を殺害した、元農林水産省事務次官に懲役六年の判決が下された。私にとっては二重の意味で予想外の判決であった。一つ目は意外と軽い判決であったという驚き。そして、二つ目は、この判決を受けてテレビやSNSで広がっている同情論である。中には執行猶予が望ましいという「爆論」も見受けられた。また、判決後、検事が被告に「体に気をつけてください」と異例の声かけを行ったことが大きく報じられた。
 一言で言えば、実に異様で、気持ちの悪いことだと思う。自己責任が国是の我が国で、かくも「犯罪者」への同情と共感が集まったのは、言うまでもなく息子の素行によるものだろう。発達障害という病名も前面に出され、社会参加を何度も失敗した果てに引きこもり、暴力が日常化していた被害者の生活の様子が、大々的に報じられている。
 被害者も周囲への殺意を表明しており、事件を未然に防ぐために息子を手にかけたのはやむを得なかった、実にドラマチックなストーリーである。私自身、自らならばどうしたかと我が身を振り返って考えさせられる点がないわけではない。しかし、刑事裁判となれば話は別だ。いかなる理由があれ、被害者を殺したことが正当化されるわけではない。正当防衛が認められる状況でもない。
 そもそも量刑が軽いこと自体が大きな疑問だ。殺されてもやむ得ないような人だと市民が思うのは勝手だが、司法が判断にそうした要素を加えるのは、明らかに法の本旨を踏み外している。殺人に至る筋書きがいた仕方なく、加害者が同情に足るからといって、それで量刑が左右されるのであれば、それは被害者の命の価値に差をつけることに他ならない。
 裁判員制度が導入された際、しばしばその理由として、「国民の理解しやすい裁判」のためだと言われた。しかし、理解しやすいというのは、通俗的な価値観におもねることではないはずだ。むしろ庶民の価値観と法曹の厳格な判断とにズレがあることを前提に、それを可視化することで、専門家の判断の論理や筋道が、素人でもわかるようなること。それが「理解しやすい裁判」の姿なのである。
 どこもかしこも、専門性が崩れ、安直な感情論が大手を振ってまかり通っている。入試改革しかり、消費税問題しかり、安全保障問題しかり。理性と科学に基づいて国家の指針を決定できる日が、果たしてこの国には来るのだろうか。

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病んだ社会

昨今の無差別殺事件での加害者の「誰でもよかった」という言い方に私たちは何を読み取ったらいいのだろうか。その背景には漠然とした不安や言葉にできない苛立ちなどがあるのだろうが、私には彼らの自己の存在に対する言いようのない軽さをその根底に見る。「人生に嫌気がさした」とか「親に叱られた」とかいう言い訳の幼稚さは、実は自己の存在感の薄さの表明以外の何ものでもないように思える。子どもがあっさりと昆虫を踏みつける、あの幼稚的残忍さと酷似しているように思うのだ。表れに表れた残虐性は自己確立をしそこなった人格の表出ではないのか。
 他方自殺者が先進国最悪レベルであると報じられた。報道によれば、うつ病、負債、生活苦、職場の人間関係等自殺に到る「危機要因」はお互いに繋がっており、会社員なら「配置転換→過労や職場の人間関係悪化→うつ病」といった経路が古典的だという。ここには個人の存在の軽さを思い知らされる日常がある。会社は人を自由に動かし、代替要員もいつでも確保できる現状は、人を大事にするという考え方の対極に今という時代があることを示している。自己の存在に対する確信を徹底的に壊される今という時代。そうした中で前者は他人への無差別殺傷という方向に向かい、後者は自死という方向に向いている。両者は正反対の方向を向いているのだが、その病根は「自己の存在のどうしようもない軽さ」というところに共通の根を持っているのではないか。
 生まれてすぐ競争社会に投げ込まれ、ほとんど小学校段階ですでに序列が確定している社会。その格差が縮まることは決してない。いやむしろますます広がっていき、何かにつけ、「人間の違い」を徹底的に刷り込まれていく。「人間の能力は遺伝子によってきまる」「もともと格差はあるもので、それがあたりまえ」というような考え方が何の疑問もなしに受け入れられる地盤が広範に作られてきているのだ。みんなで協力して政治を変えようとか努力は報われるなどという言葉ほど現実を反映していない妄言はないと思えるのだ。
 カンボジアでは労働者が企業に団結して自身たちの労働環境を良くするために行動を起こしているという。国の最低賃金の上昇は縫製工場で働く人たちのレベルに沿って上昇している。日雇い、派遣などの使い捨ての労働の現状が今の若者の共感を得ているというが、そこに溜まっていてはダメなのだ。現状を自分たちの力で変えるんだという意識、変えられるんだという経験、それには「自己の存在への愛着」が不可欠だし、「他者殺傷」と「自死」を防ぐ鍵にもなる。現状に打ちひしがれ、協力して何かを成し遂げるという経験の乏しい若者に私たちはどう迫っていったらいいのか。カンボジアの縫製工場で働く労働者から学ぶべき視座は多い。
 無差別で無辜の命を奪った小島は「謝罪すると情状酌量で罪が軽くなる」と法廷での謝罪を拒んだ。病んだ日本の社会から見たカンボジアはやけに眩しく見えた。

 

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不安は人間を攻撃的にし、社会を排除型に変える

戦後半世紀以上経っても戦争責任を曖昧にしているこの国は、原発責任も曖昧にしたまま、これからの世代に放射能の脅威を押し付けるのか。原発責任を曖昧にしたままでは、この国は永遠に復興しない。まさにその通りだと思う。


祖父が広島の公立中学に入学したのは一九五九年、六〇年安保の前年で、学校に「道徳」の時間が特設された年であった。
 「日の丸」「君が代」そして天皇。戦争責任を曖昧にした無責任国家が「道徳」を持ち出したが、それは、社会のある種の乱れを憂える「国民」の声を利用するものでもあった。文科省の言うもの以外は全て偏回教育。教育の中立とはつまり時の政権に忠実であるということ。原爆を投下された広島で、それ故のことだったのか、「平和」という言葉さえ使うのに勇気のいる始末で、政治権力はまことに荒々しく教育内容に踏み込み続けた。子どもたちの能力は体制内的であればよく、批判精神は不要。子どもの未来も日本の未来も考えない一方的な圧力の下で、自律的な力をもった教師は徐々に排除されつつあったという。
 社会の根底に無責任があることを、当時の子どもたちは感じ取っていたと思う。「荒れ」を抑え込まれるとやがて「登校拒否」「いじめ」等、現象の有り様をより深刻にしながら、むしろ鋭敏な部分が社会の根源的な暗さを反映して、その道をたどりたどされていった。自殺が増えたのもこの時代であった。
 全国の教師たちの今が、子どもたちがどうしているのかが案じられる。特に東京や大阪の先生たちの苦労がしのばれる。「戦争は人間の仕業である。神の仕業ではない」前ローマ法王の言葉で長崎カトリック信者の多くは一夜にして「祈り」から「闘い」に立ち上がったと思う。その言葉にならえば、「原発事故は人間の仕業である。自然災害ではない」となるだろう。
 原発政策を取り込んで「核アレルギー」を封じ込めようと率先したという二人の名前ははっきりしている。責任政党は自民党であったはず。電力会社関係者もいわゆる「御用学者」もそのままで寿命を全うするのだろうか。そうさせない国民の生き方が、今度は生まれてくるに違いない、あまりに酷な被害の中で、それだからこそ「国の新たな地平」が切り開かれるのではないかと期待した。いや今ももちろん期待している。しかし、今後も相変わらず多くのことが隠され、論理がすり替えられ、人々の記憶の徐々に薄らぐのを待つというような、国民を操作対象としか見ない有り様に怒りを禁じ得ない。
 それにしてもいつから私たちはこのように飼い慣らさせれのか。自分の首を絞める相手の笑顔をうっとりと見つめるような愚人の形象が魯迅にも小田実にもあったように思う。そのような日本人ではないはずだろうと想いながらも、未来の世代に心の底からの笑顔を向けられない。

 

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性に関する理解

11月に二日間に渡り東京大学にて国際開発学会が開催された。本学会は、様々な分野から開発を考えアプローチするために、毎年春と秋に識者らを中心に研究発表や報告会が行われる。二日目の午前には女性に関するセクションが開催された。そこでは4名の女性研究員が女性の「月経」に関して開発学的な視点からそれぞれの研究の報告会を行った。3人目の発表の時だった。発表者が私の席を見つめ「このジャンダーバランスの中、出席していただいたあなたに深く敬意を表します」と深く頭を下げた。私はその状況が読めず一瞬唖然としたが、あたりを見渡すと、20名ほどいた参加者の中で男性は私一人であるということに気がついた。
 女性が経験する月経は、生理的現象でもあると同時に、社会文化的現象でもある。発表者の一人は、カンボジア農村部において月経に対する意識の変容を研究していた。カンボジアの農村部では、月経は羞恥心を伴うものであり、公には秘匿すべきものであり、かつ「女性」の問題となっている。さらには、公の場で学生に教える立場にある教員でさえ恥ずかしさから月経の授業中、月経やその仕組みについて口にするのを憚ると警鐘を鳴らした。 
 発表者が行ったインタビュー調査では、多くの住民が学校で性教育を行うことに退嬰的であったという。そうした通底する価値観に対し開発を行う側は一石を投じる姿勢であるという。翻って日本はどうか。男尊女卑と揶揄される日本は、女性の姓の事情に対して、一体どれほどの理解を示しているのであろうか。
 本学会では、政策を考える立場にある研究者や開発職員、大学教授や高等教育を受けた博士課程の大学院生が参加者全体の大多数を占めている。そこで行われた月経に関する発表に彼らが何ら興味を示さないのは危機的だと思う。途上国に対してきちんとした啓発活動を行うためには、まずは我々が正しい理解を示さなければならないのだが、非常に多くの疑問を残した。

 

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心得

今年の梅雨は例年にも増して長かった。果てなく続く雨に気が滅入ったが、豪雨災害に今年もまた襲われた西日本各地ではそれどころではなかった。幸い、私の実家がある滋賀県や、私が今住んでいる名古屋では大きな災害の被害は免れた。災害された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 東日本では七月の後半よりようやく太平洋高気圧がやってきて、青い夏空が広がった。夏の到来を多くの国民が待ち望んでいたが、10月に入った今でも、いまだ夏並みの暑さが続いている。気候変動の影響が、年々、強く感じられるようになってきた。ヨーロッパでもこの夏、記録的猛暑が続き、最高気温が次々に塗り替えられている。イタリアでは国内の各地で観測史上最高気温を塗り替え、フランスではその影響を受け、作物が育たなくなっている。

 気候変動こそ、大問題である。子どもたち、その次の子どもたちが健やかに暮らせる惑星であってほしい。スウェーデンの少女の訴えは瞬く間に各国に飛び火し、世界各地で環境保護を訴えるデモが行われている。経済成長だけが自己目的化した政治を根本的に転換する契機になる最後の機会かもしれない。

 未だ多くの人は環境保護と経済成長は強い関係があると考えている。環境保護を強化すると経済成長が止まってしまうという主張である。一見、二酸化炭素排出を削減することは多大な経済的損失を覚悟しないとできないことのように思われるが、現在、世界経済が縮小に向かっているのは、環境保護をしているからではない。言わずもがな、環境保護などあまり考慮されていない。世界経済が縮小しているのはネットエネルギー産出が減少しているからで、実際2016年に世界のエネルギー生産はピークアウトしている。石油や石炭、天然ガスを燃やして経済成長ができるなんて1980年年代までの話である。嘘だと思うのなら、ベネズエラの事例を見てから言うべきである。

 そうした世界的な動きを考えると、今回の参議院選挙で、気候変動対策が全く議論されなかったのは、ただ遺憾という以上に、異常と言うべきだろう。日本は世界で第五位の二酸化炭素排出国であり、国際社会において相応の責任を果たすべき位置にあるはずなのだ。日本人はあまりにも気候変動に鈍感なのだ。呆れて物も言えないが、現与党および政府は、気候変動対策を口実として原発再稼働を推し進めようとしているが、3・11の責任に頬かむりをし、東京電力などのゾンビ企業を生かし続ける政策が日本経済の衰退の一因となっている。

 気候変動の影響は今後、あらゆる国と地域で顕在化してゆく。その時になってはじめて対策を始めるのであればそれは後の祭りである。そうならないために、自分も含め、一人一人が今、地球保護のためにできることをしてゆくべきである。

 

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社会の連帯を強める

 

 東日本大震災で日本が揺れていた2011年、遠く離れた北欧のノルウェーでは国内史上最悪の惨事だと言われる連続テロ事件が起こった。77人を殺した犯人に対して裁判所が下した判決は、禁錮21年であった。この国には死刑制度はない。この事件を受けて、国内では一時死刑制度の復活も検討されたが、実現には至らなかった。

 

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 ノルウェーには世界一豪華な刑務所として名高いバストイ刑務所がある。この刑務所には強姦や殺人などの重大犯罪者が収容されているが周囲には塀がない。刑務所内には、綺麗な個室が準備され、十分な広さがある図書館では囚人が自由に読書をし、外では大きな運動場でスポーツをする受刑者の姿が日本のメディアでも幾度となく取り上げられた。ノルウェーでは大量殺傷事件のように、社会や人々への不信が強まり、誰かを排除しようとする動きが起こるたびに、王室や政府、メディア、一人一人が社会を信頼し、同じ国内で暮らす人々を信じて連帯することの意義を強調して支え合ってきた。

 

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 翻って日本はどうか。令和に入り起きた事件の記憶は鮮明だ。その度に聞こえてくるのは「死にたいなら一人で死ねばいい」という言葉だ。テレビという公共の電波を使い、「ひとりで死んで」発言をしたキャスターや落語家を6月1日の朝日新聞が俎上に載せている。それらの発言に対して警鐘を鳴らす人たちも稀にみられた。ただそうした声はあまりにも少なかった。多くの人たちが「他人を殺して自殺するならひとりで死ぬべきだ」という意見を持っていた。その中では、少数派の意見はすぐに掻き消された。

 2016年に起きた相模原障害者無差別殺傷事件でも犯行動機には「障害者は生きてはいけない存在」として一方的に決めつける思想があった。この「死んだ方がよい人間」が社会に存在しているかのごとき思想は、極めて危険であり、その芽の段階から摘んでおかなければ大事件に発展しかねない。元農林水産事務次官の男性が実の息子を殺害した際、「このままでは息子が危害を加えると思った。殺しておかなければならない」と述べた。事件の4日前に川崎市の路上で19人が殺傷される事件が起こった。男性は自分の息子が二の舞になると考えたのである。ここでも「死んでおくべき存在」という言葉が全国を駆け巡った。

 

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 自民党の杉田衆議院議員は性的マイノリティーに対し、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と差別発言を述べている。子どもの有無が生産性の有無なのか、意味が取れない。要するに、マジョリティーの価値観が正義だということなのだろう。価値がある人間と、価値がない人間の両方が存在しているかのように思わせる。「ひとりで死ぬべきだ」というメッセージにも同様のメッセージ性がある。犯人に対して述べられていると言っても、中にはその言葉によって絶望を深め、自殺に誘導されてしまう人もいるのではないだろうか。あるいは、危機感から周りの人間を殺してしまう人もいるのではないだろうか。元農林水産事務次官の事件は、そうしたことを想起させる。

 

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 何度も繰り返される、社会を分断し、相互不信感を強めるような言葉の数々に、即視感を覚えると同時に、辟易する気持ちを抑えられないでいる。

「ひとりで死ぬべきという非難は避けるべきだ」という意見に対するカウンターとして被害者遺族という存在を持ち込んでくる代弁者たちの言葉が溢れかえった。「きれいごとや理想論は自分が被害者になってから言え。被害者の気持ちを考えろ」という言葉である。被害者遺族は当然ながら強い言葉で犯行を非難することも、犯人に死んでほしいと思うことも自由である。むしろ、そうしなければならない時期がある。ただ、当事者である被害者遺族の感情を分かったふりをして、外部の人間が被害者遺族のことを代弁するかのように振る舞うことには違和感を覚える。当事者は、事件発生直後や混乱期には「ひとりで死ね」と同様の強い怒りの言葉を犯人や周囲に吐露するが、時間が経つに従って犯人を責めるよりも、その動機や背景を知りたいと思うようになる場合が多い。だからこそ、歪んだ正義感にとらわれた仮の被害者遺族の代弁者の言葉は真実だとは思えない。

 

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 要するに、「ひとりで死ね」ということは、被害者側に立ち、その声を代弁している正義の味方ではない。むしろ、事件を利用して叩く対象を探し、それらの言葉を吐く人々を同調し、マジョリティーのなかに自分を置きたい人々である。同調圧力の影響は大きく、メディアもその声を背景に発信方法を検討しなければならないから厄介だ。叩く対象を求め続ける歪んだ正義感に支配されないように、落ち着いた状態で話せる当事者の声を拡散することこそ、メディアの役割ではないだろうか。

 

 2000年に東京都世田谷区で起きた世田谷一家殺人事件で亡くなった宮澤泰子さんの姉である入江杏さんは以下のように述べる。

 

「犯罪により家族を喪った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて『死にたいならひとりで死ね』という言葉は『いかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されない』という理念を裏切ってしまう、と感じます。暴力や憎悪を助長させることなく、子供たちを守っていく責任を自覚したいです」。

さらに、「ひとりで死ねという言葉は、必ずしも犯罪被害者遺族の気持ちを代弁するものではないことを伝えることができた」と述べている。

 

2015年にパリで大規模なテロ事件が起きた時、フランスの人々は犯行を強く非難しつつも「私たちの社会が犯人を生み、事件を起こしてしまった」と捉えた。日本では、犯人やその家族、または行政にその責任を求める風潮が強い。つまり、あくまで自分たちではなく他者のみが悪いのである。ノルウェーやフランスのように、日本の社会システムをすぐに変更することはできない。彼らも失敗や議論を繰り返し、膨大な時間をかけながら成熟した民主社会、現行システムを確立してきたからだ。

 

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 社会に絶望した人が凶行を起こすことは非常に稀であるということは強調しておきたいが、その凶行を社会が振り返り、真摯に受け止めなければ同じような事件が繰り返されてしまう。実際には、日本では社会に絶望した人はひっそりと一人で命を絶ってしまうことが大半である。日本の自殺率も相変わらず高く、先進国の共通課題である。社会福祉学の分野では、全ての命が社会にとって意味がある、という原理を掲げている。いま、社会に居場所がない、生きづらいと感じている人たちは、社会の欠点を一番よくわかっているという視点でもある。だから彼らの声を聞くことは、より良い社会へと繋ぐ一歩になる。

 

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 皆が「ひとりで死ぬべきだ」と分断を煽るのではなく、皆で「理解し合おう」と連帯を強めた時、民主主義ははじめて意味をなす。

本は固定費

 

本を読んで勉強をしたい、何かを学びたいと考えている人は多いと思います。だけれど、一冊2000円、3000円する本を目の前にした時、購入を躊躇い、結局購入せずに終わってしまう人を多く見かけます。私自身、これまで多くの本を読んできましたが、何かと天秤にかけた結果、読まずに終わった本はそれ以上に沢山あります。

 学生目線でなぜそのようなことが起きるのかを考えた時、やはり本の価格が一番の理由だったと思います。高い、高くない本でも、2000円支払うのであれば他のことにお金を使おうという考えがありました。私の中では常に「本を読みたい」という欲望と、「そこにお金を使うべきか」という葛藤がありました。

 ある日、視点を変えてみようと思いました。本を購入する費用と何かを天秤にかけるのではなく、本を購入する費用は固定費として考えるというものです。月に5000円なり10000円を固定費として好きな本を上限まで購入する。そうした考え方に移って以降、本を買うことに躊躇しなくなりました。本はいいですよ。

修論の評価

修士論文の評価基準は所属する研究科により程度の差はあるが、近年の潮流として研究手法を評価する傾向がある。確かに、修士課程に入ると研究手法を学ぶ機会があり、そこで学んだ手法を修論に取り入れるというのは教育のアウトプットの観点から一定の評価に値するということに論を俟たない。とはいえ、個人的には文献レビューに対する評価も研究手法と同じレベルで、またはそれ以上に重要であり、きちんと評価されるべきことと考えている。

研究分野により程度の差はあるが、特に社会科学や人文科学の領域では、既存の研究をどれだけ多く知ることができるのかといった量的な取り組みと、それらの研究をどれだけきれいに纏めることができるのかといった質の取り組みの二つが求められる。

研究領域を問わず、自分と同じような研究をした事例は多くあり、付随した研究にまで視野を広げると、読むべき既存の研究は莫大な量となる。「自分の研究に関する論文が見当たらない」といった声は特に修士一年目の院生からは多く聞こえてくるが、「ないわけがない」というのが答えになる。論文の探し方、論文の読み方はきちんとした訓練が必要であり、英語力でカバーできるほど簡単なことではない。また、「フィールドワークに行ったけれど、当初の予定よりデータが集められなかった」「フィールドワークで聞くべき質問を聞きそびれた」といった声もある。事前に多くの論文に目を通すことにより、そうしたリスクは回避することは可能であるし、実際にフィールドワークが失敗に終わったとしても、きちんと文献レビューができていればいくらでも潰しが効く。

とはいえ、たとえ多くの論文を読んだからといって、それらが自身の研究に反映されるかというと、必ずしもそうではない。論文を読んで内容を理解し、構造化し、血肉化する作業が必要とされる。どれだけ多くの論文を読んだとしても、この作業ができていなければ研究を進めていくことは困難となる。「自分は半構造化インタビューを行う」、「オープンエンドクエッションを行う」などと決めた院生でも、ではなぜその手法を使うのか?の答えとして「授業で習ったからとりあえず、、」と、習った手法を使いたい気持ちは皆誰しも同じだが、”手法を決めて理由を正当化する”のではなく、”理由があって手法を決める”ことをしなければ、研究を進めていくどこかの過程で必ず躓くことになる。

複数の研究の結果をまとめ、より高い見地から分析する手法に「メタアナリシス」がある。メタアナリシスを行うための条件としては、①既存の論文をたくさん読む、②集めた文献をきれいに纏める、ことが条件であり、修士レベルでここまで出来ていればとりあえずは及第点だと考えている。「大学院は研究の手法を学ぶ場」だと捉えられることが多い。きちんとした研究手法に辿り着くためには、まずは自分の研究に関する既存の文献に通暁する必要がある。もちろん、文献レビューはどう頑張ったところで効率化は期待できない。しかし、そうした作業は非常に重要なインプットであり、同時に、修士の学生にとっては大きなアウトプットにもなると考えている。

 

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知る自由を守り抜く

「表現の不自由展・その後」が公開後わずか3日で中止されたことに「表現の自由」が侵害されたという声が多い。憲法二一条の「表現の自由」は、一般人が自発的に行う表現について、国会や自治体などの「公」からの干渉を受けないことを指している。「公」からの干渉である。問題となった作品は、一度行政と芸術家による企画案提出・承認ないし選別のプロセスを通過し、今回の一連の出来事がなければ祭典終了まで展示が期待される予定であった。また、決定権者である津田氏の説明によれば、中止の決定は津田氏自身によるもので、政治的介入によるものではない。そうなると、この一件を憲法上の検閲あるいはそれ以外の強制に当たるとは言えない。今回の一件は「表現の自由」がそのまま当てはまる場面ではないと思っている。今回侵害されたのは「表現」の受け手としての「知る権利」であったのではないだろうか。
「表現」は人を不快にさせるリスクから逃れることはできない。簡単には相互理解にたどり着けない事柄ばかりを抱えた社会の中で、理解や共感に到着できていなくても、ともかく互いの権利は守り合う、暴力は自制する、公に属する人々はその位置にふさわしい自制を守る、という認識を共有することだけは、できていないとならない。
対話による理解は、達成されるべき理想として常に試みられる価値がある。しかし同時に、理解に辿り着かない途中の段階で、理解はできずとも守るべき共存の作法がある。たとえば、ある芸術作品を見るとき、私たちは往々にして、それが何を言おうとしているのか、そこに何が描かれているのか、理解できない。できないまま、画面のエネルギーに圧倒されて呆然とする、あるいは「なんだか刺さるな、なんなんだろうな」と首を傾げながら、その「何かが刺さった感じ」を持ち帰る。理解はできずとも、その空間を破壊してはならない、その作品と他の鑑賞者の間を遮断してはならない、というルールは守れるはずである。

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IR誘致に隔靴搔痒の感がある。

 

去る八月二二日、横浜市の林文子市長がIR誘致に乗り出す方針を明らかにした。二年前の市長選挙の際、市長は「IR誘致は白紙」だとしていた。「市民の意見を踏まえた上で方向性を決定する」ともしていた。ところが、ここにきて誘致の方針が突然打ち出されたのだから、多くの国民は驚いているだろうし、反発する声も出てこよう。

 このIRを安倍政権は成長戦略に位置付け、東京オリンピックパラリンピック後の観光ビジネスの新たな起爆剤にするという。ただIRとは何のことか多くの国民は分かっていない。Integrated Resort(統合型リゾート)の略だというが、それでもわからない。この政策の本質はカジノ解禁にあるが、IRという語からはそれを読み取れない。おそらくは、カジノが前面に出ないよう、IRなどという隠語を用いたのだろう。そもそもカジノはギャンブルであり、ギャンブルはもとよりわが刑法が禁じるところである。その禁を破れば犯罪を構成する。その犯罪に該当する行為を一転させて観光ビジネスの起爆剤にする。こんなことが今、建設に向けて進められているのだから、当然だが世論から反対の声が多い。だから隠語を使うのだと思う。

 報道によれば林市長はもともとIRの誘致に前向きだったという。ところが市長選で三選を目指すに当たり、選挙の半年ほど前に「白紙」に態度を変えたという。「前向き」は市長選挙で有利に働かないとの判断のもとに、とりあえず戦術として「白紙」を選択したものと思われる。その証拠に、当時の市長の姿勢が本当に「白紙」であって、しかも「市民の意見を踏まえた上で方向性を決定する」と本気で考えていたのであれば、このたびの方針表明までの過程で、広く市民の意見に聴き、それを集約する何らかの作業が行われていてしかるべきだが、そうした形跡は見られない。 

 なぜ市民の意見を聴くことをしなかったのかと言えば、そんなことは市長にとって必要なかったから、いやむしろ余計なことだっからであろう。既に心の中では「誘致の方針」が定まっていて、あとはそれを表現するタイミングだけが問題だったのではないかと思う。市長選挙の経緯に対する市民やマスコミの関心が薄れるタイミングである。そんな折に、なまじ市民の意見を聞いたりすれば、折角ほとぼりが冷めつつある時に敢えて寝た子を起こすことになる。まして、市民の意見が誘致に否定的であることが判明すれば市長は誘致方針を表明しづらくなる。記者会見の場で記者から「判断材料として市民の意見をどの程度聞いたか」という質問が投げかけられ「会合や普段の生活で、いろんな人の意見を聞いている」と答えたそうだが、噴飯ものである。この発言を説明責任という観点から評価すると、失礼ながら失格というほかない。

 言わずもがなのことだが、政治家には説明責任が求められる。公約など過去の発言と今日の言動との間の整合性は常に問われる。もとより選挙の際の「白紙」が「誘致の方針」変わることは当然ありえる。ただ、どうしてその方針に変わったのかについて、市民の納得がいく説明がなければならない。その際、「市民の意見を踏まえた上で方針性を決定する」との約束がどう履行されたのかは重要なポイントになるが、果たして先の噴飯ものの説明に納得し、理解を示す市民がいったいどれほどいることやら。

 林市長のこの無責任な態度には沖縄県名護市辺野古の埋め立てに承認した仲井前知事の態度と瓜二つである。仲井知事はもともと辺野古の埋め立てには賛成の立場であった。ところが、再選を目指す十年十一月の知事選挙では一転して、埋め立てに反対する考えを表明した。やはり「賛成」では選挙戦を有利に戦えないと踏んだのだろう。再選後の仲井知事はその任期の終盤になって、埋立て反対の公約を反故にして、埋立てを承認した。その重大な方針の変更について納得できる説明はなかった。強いて言えば、政府から十四年度予算の中で沖縄復興予算をふんだんにつけてもらったことに感謝する旨の発言をしていたので、それを方針変更の理由にしたかったのかもしれないが、それは公約を反故にする理由になり得ない。彼も説明責任を果たしていないのである。

 辺野古をめぐる政府と沖縄県との泥沼の紛争は、実にこの仲井知事の方針変更から始まった。その後、仲井知事から辺野古埋立てに反対する翁長知事に変わり、その翁長知事のもとで承認の取り消しなどの手続きが取られた。さらに翁長知事を引き継いだデニー知事が承認を撤回するに及んだが、これで物事は落ち着いたわけではない。やはり、県民の代表である知事がいったん承認した意味はそれほど大きいということである。

 では、横浜市はIRをめぐってこれからどうなるのか。辺野古のこれまでの経緯が、今後の横浜市の道行きにとって教訓や参考になるだろう。例えば、林市長のもとでいったん招致が決まれば、その後でたとえIRに反対する市長が登場したとしても、事態を元に戻すことは至難の業となるであろうことは辺野古の事情から容易に察せられる。辺野古と違う事情もある。埋立て承認は知事の専権事項だから、最終的には知事の考えで決めることができた。しかしIRの招致では今後市議会の議決を経て、市長が国に申請することとなる。今次の市長の「誘致方針」の表明は、未だ市の正式の意思決定ではない。正式決定の舞台は市議会である。

 その市議会がまともに機能するなら、誘致の是非を真摯に議論することになる。誘致が市にどんな功罪をもたらすのか。それは市の経済や財政に与える効果だったり、ギャンブル依存症への対応策や治安悪化に対する不安だったりする。カジノの存在が横浜の文化的、歴史的イメージにどんな影響を及ぼすことになるのかも真剣に論じられなければならない。併せて「市民の意見を踏まえた上で」との林市長の公約について、市議会は市長の説明責任を追求しなければならない。その際、多数会派が「与党」だから有那無那にするなどという態度をとるなら、市議会は行政監視という議会の重要な役割を放棄したことになる。市議会として失格である。

 そして問題はその「市民の意見」の把握と踏まえ方である。沖縄県では辺野古の埋立ての是非をめぐって本年二月に県民投票が行われた。その結果は埋立てを非とする投票の方が多かったが、それがすでになされた知事の承認の効力に影響するものではない。仮に県民投票が仲井知事による承認の前に実施されていれば、その後の自体は大きく変わった可能性はある。県民投票はタイミングを失くしていた。仮に、横浜市のIR誘致について、市民主導の住民投票であれ何であれ市民の意見を問うのであれば、それは市長が誘致申請の議案を市議会に提出する前でなければあまり意味がない。その結果、もし誘致を是とする市民が多ければ、市長は自信をもってその後の手続きを進めることができる。逆に、非とする市民が多ければ、市長は申請する議案を議会に提出することを躊躇するかもしれない。躊躇うことなく議案を提出したとしても、その後の市議会の審議においては、この「市民の意見」は重要な意味を持つに違いない。

 ともあれ、「市民の意見」を問うならばタイミングを失することがあってはならない。それは辺野古埋立ての貴重な教訓だと思う。

 

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Compromise

日韓関係が戦後最悪の状況とも言われる。その根底には戦前の日本の朝鮮半島の植民地化に対する韓国人の根強い怨恨と、六五年の日韓基本条約における戦後処理の不完全さがある。いわゆる従軍慰安婦や徴用工問題も、植民地下で起きた被害であり、被害国の恨みはそう簡単には消えないだろう。
また、経済協力を中心とした日韓基本条約で韓国人に対する戦時補償はすべて「解決済み」だとする日本政府の一貫した対応は、法的にはあり得たとしても、韓国民の国民感情を納得させることはできない。政治と経済問題は分けて考えるべきだとする考え方もあるが、日韓関係はそう単純ではない。日本が韓国をホワイト国から除外した件は、レーダー照射や徴用工問題に対する報復と受け取られても仕方ない面もある。その後韓国がGSOMIAを破棄したのも、明らかにホワイト国除外に対する報復である。
また、文大統領と安倍首相双方の不妥協的な性格も多分に、日韓問題を複雑にしている一因である。革新的な文大統領にとって、戦争責任に否定的で、右翼的な色彩に強い安倍首相は、心情的にも許しがたい存在とも言えるだろう。
最隣国である日韓状況をこれ以上悪化させるべきではない。心底では両国民は関係回復を願っている。問題の根底が「歴史認識」であることは明らかである以上、日本は日韓条約遵守に拘泥する愚を乗り越え、真摯に韓国と向き合う以外に解決の道はない。韓国で暴行を受けた日本人の女性も出た。日本でいじめを受ける在日韓国人もいる。これ以上両国民を犠牲にすべきではない。

 

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院生からの警告

 

厳しい暑さが続く9月、この時期は大半の大学院で入学試験が実施されています。学部を卒業して直接大学院に進学される方や、一度社会人を経験した後に大学院に入学される方、いろいろな方がこの時期入学試験を受験します。大学院という場をどう捉えるかは人により異なります。学び直しの場と考えている方もいれば、勉強の場ではなく研究の場だと考えている方もいらっしゃいます。どれも間違いではないと思います。大学院という場は、異なる需要に応えるべき場だと私は考えています。大学院をどう利用するかはその人次第です。しかしながら、安易な気持ちでに入学してしまうと人生を破綻に陥らせる危険性を持つ場でもあります。そうした側面は事前に知っておいて損はないと思いますので、この場を借りて大学院入学という決断に警鐘を鳴らせればと考えています。

 21世紀、高度な技術と知識が要求される時代、特に日本のような社会では、大学教育の4年間だけで、グローバル社会で対応しうるような知識や技術の習得はほとんど不可能だと思います。特に工学部系の大学では、修士課程をでないと、産業社会の中で使い物になる知識や技術を習得するのが難しいというのが1980年代以降の常識となっています。就職に強い大学ランキングがちょうど先ほど東洋経済から報告されましたが、2年連続でトップだったのが東京工業大学でした。ご存知の方も多いと思いますが、東京工業大学は学部と大学院を合わせた6年一貫教育を実施している理系の大学です。大阪大学の工学部では修士と学部の定員数は若干学部が多い程度となっています。従って理系の分野では、修士課程を修学することが当然のことと捉えられるようになってきたと言っても過言ではないでしょう。

 他方、文系の大学院の内実はどうなっているのでしょうか。未だ、文系で大学院は珍しいと考えている方が多いというのが私の体感です。理系はどちらかというと知識の涵養というよりは、技術の習得という場として機能しているような気がします。文系は技術の取得というよりは、知識をどれだけ増やせるのかが問われている場であり、そのような知識は大学4年間で十分ではないかというのが一般の共通認識になっているのではないでしょうか。しかしながら、学問を修めるというのはどの分野においても大学を卒業したくらいでは到底不可能だと思います。更に、分野にもよりますが、大学院からでしか学べない分野もあります。そうしたニッチな需要に応えることができるのも大学院の魅力だと考えています。

 予めお断りしておきますが、私は社会科学の分野に身を置く立場なので、理系の世界に通暁しているわけではありません。本稿では、文系の大学院という前提で話を進めていきます。

 まず始めに、誰しも嫌気が差すほど言われることだと思いますが、英語が理解できていないと話になりません。なぜ英語ができないと話にならないかと言いますと、日本語の情報量が少な過ぎるからです。日本人が先陣を切って行なっている研究なんて全体の一部に過ぎません。大半の研究は日本人ではない他国の誰かが行なっているものです。そういった研究を知ることは大学院生にとって非常に重要なことです。断言しますが、英語が理解できなければ大学院への進学は諦めた方がいいと思います。ではどれくらいの英語力が必要なのでしょうか。数値化することは難しいです。英語で書かれた論文をストレスなく読めるレベルでしょうか。英文を読んでストレスを感じるレベルであれば、大学院の期間に読む文献の量も少なくなります。ですので、一つの指標としては英語で書かれた論文を無理なく読めるレベルと言えます。ただ実際には、英語が読めない院生は非常に多いです。彼らがどう研究をしているのかが不思議でなりません。

 発表を嫌う人も大学院には来ない方がいいと思います。大学院に入ると研究の報告会や学会があります。よく「まだ発表できるレベルにない」と発表を拒む人がいますが、ではいつになったら発表ができるようになるのか疑問です。発表ができるレベルにないということは、別言すると、今まで研究が進んでいないということです。完成された研究を発表することは修士課程の学生には非常にハードルが高いです。研究というのは発表の場を通じて質を高めていくものです。大学院生にもなって発表を拒むのは正直話にならないレベルです。いつでも発表ができる準備と姿勢が求められているというか、最低限備えておくべきことだと思います。

 入学後すぐに就活を始める院生がいます。冒頭で述べたように大学院という機関をどう利用するかはその方次第です。しかしながら学部卒と修士卒の違いで就活において有利になるのはごく一部の分野で、大半の場合むしろ不利になります。大学院では学部以上の知識の涵養とスキルを習得できる場であることは間違いありませんが、就活がメインになってしまうと、そうした知識や技術を習得しないまま卒業することになってしまいます。現にそのような大学院生は多いと思います。個人的にはそうした姿勢が大学院生が足元を見られる理由になっている気がします。なんの科学的根拠もないですが、8割ほどの院生は学部卒の知識・技術レベルで卒業していきます。

 何かわからないことがあれば途端に「オススメの参考書はありませんか?」と聞いてくる高校生のように、すぐに答えを求めてくる大学院生がいます。答えはもちろん重要なのですが、その答えを導き出す方法や答えに辿り着くまでの過程が大事なのです。すぐに答えを求めてくる方は大学院では非常に苦労しますし、結局うわべだけ理解したつもりになって卒業します。このような方には大学院はあまりおすすめできません。

 勉強が好きな人ではないと大学院生活は厳しいものとなります。大学院に入ると、学部とは異なり、特に一人で黙々と勉強をしなければならなくなります。そうした一人の時間のうち、どれくらいの時間を勉強に費やすことができるのかは、その人がどれだけ純粋に勉強が好きなのかに依存します。勉強が本質的に好きではない方は、勉強よりも優先することが多く、大学院に進学する意味がないように思います。逆に、勉強が好きで淡々と進めることができる方は大学院では非常に有意義な時間を過ごすことができます。勉強が嫌いな人にとって大学院で過ごす2年間は過酷なものとなります。

 

纏め

 

高学歴を欲しさに大学院に進学しようとしている方は回れ右して進学より無難に就活を選びましょう。

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権力者の驕り

 

参議院選挙の公示前後に、様々なメディアで各党の党首討論が行われた。そこで目立ったのが、自由民主党安倍総裁の異様な態度だ。

 「原発に新増設を認めないか」、「選択的夫婦別姓を認めるか」といった質問に、挙手によるイエス、ノーを問われた安倍首相は、「印象操作だ」として挙手を拒否した。ほかにも、決められた発言時間を守らずに、制止されても発言を続けたり、問われたことに答えず、関係のないことを延々と話すなど、与党の総裁あるいは一国の総理とは思えない子どもじみた態度には、呆れかえるしかなかった。

 「イエス、ノーで問うのは印象操作だ」と言うが、有権者が知りたいのはまさしく党首のその問題に対する「イエスかノーか」だ。それ以外の理屈を知っても、特に選挙のような状況ではあまり意味がない。安倍総裁自身が自身の政策に自信を持っているのなら正々堂々と「イエスかノーか」で答えればいいと思う。

 「印象操作だ」と安倍総裁は言うが、有権者は党首や立候補者の「印象」でしか評価しようがない場合がある。少なくとも、それを避けようとする安倍総裁の「印象」は最悪だ。これに限らず、気になるのは、安倍総裁のメディアに対する姿勢だ。

 特に自分に対して批判的と思われるテレビなどに出演するときは、最初から喧嘩腰というか、対決姿勢が露骨に出ている。逆に自分の考えを支持してくれるメディアに出るときは機嫌がいいし、質問にもきちんと答えている。いやいや出演している番組との落差は驚くばかりだ。

 しかし自民党の安倍総裁は、一方では日本の安倍総理大臣でもある。自身の好き嫌いによるメディアに対する差別は、有権者から見ると不愉快であり、怖い。メディアに対する露骨な差別は、自分を支持してくれるか支持してくれないかによって、国民を差別することにもつながるのではないか。

 二年前の東京都議会議員選挙の応援演説中に自分を批判する声に対して「こんな人たち」と言った姿を思い出す。批判に反論するのはいい。しかし批判者に対する権力者の露骨な敵対意識は弾圧と変わらない。長期政権の驕りとしか言いようがない。

 

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