抵抗

“小さな抵抗こそが希望になる”というテーマで不定期に記事を書いています。

無辜のいのち

 

 北風が吹き付ける日々が続く。広い世界には銀世界の地も泳げる地もあろうが、ここ東京の路地ではまだ落ち葉が風に舞い、枝先の僅かな残り葉が光を反射しながら、別れを惜しむように揺れる。冬の日差しは短いけれど、照りつけると厳しい。気のせいか、肌が焦げていく強ささえ感じることがある。

 北風に身が縮むこの季節は毎度のことながら、昨今は、いのちが凍えてしまうような事件が少なくない。親が子を殺す現象は(権力争いの時代にあったそうだが)、平穏な時代の市井では、感情任せに我が子を殺してしまう行為はほとんどなかったに違いない。また、いじめやけんかの末に、子どもが子どもを殺す事態がこれほど多かったこともなかったろう。しかもいずれも「殺意はなかった」だ。

 親は子を、子どもは友を、心から憎く殺したいほどの感情を持っていたのか。ほとんどの場合、否だろう。かれらが驚くほど簡単に人間の生命を絶ってしまうのは何故だろう。

 いのちとは存在だと私は考える。いのちを尊ぶからこそお互いの存在が成り立つ。この二つの関係は切り離せない。ところが近年は、両者がバラバラの状態で受け取られ、悔いても悔いきれない「失敗」を犯してしまう。いのち=存在が気持ちの内側に備わっていれば、自ずと弱者を思いやって優しくなれるものだ。「人間は考える葦」であるからこそ、弱肉強食の本能を超えて、社会を構成できるのである。

 だが市場経済を勝ち抜くには、「弱者は邪魔だ」と扱われてきた。彼らをいたわる時間も惜しんで、経済の向上を重要視した。結果、日本は経済的な先端に立てた。だが、人間は採算性の奴隷となり、一本の釘のような存在でさえある。こうしたことが、一人ひとりの存在を軽くし、いのちの価値さえ掴めなくさせてしまった。

 いのちが絶えるときが死だという基本を、大人が子どもに、いや熟年層が若い人たちに、噛み砕いて語る必要があるのかもしれない。

 

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「抵抗」ブログの移行について

 

平素よりお世話になっております。今回は「抵抗」ブログの移行について周知させていただきたいと思います。

 振り返れば、私はブログ「抵抗」を高校3年生の時から書き続けてまいりました。不定期での更新でありながらもブログを書き続けてこれたモチベーションは私のルーツにあるといっても過言ではありません。私は朝鮮戦争から命かながら日本へ逃げ込んできた祖父母の受難の幼少期時代の話を聞いて育ちました。それゆえ教育の機会を十分に得ることができなかった母の下で、私は必然的にも「教育」や「弱者の声」に関心を寄せることとなりました。「抵抗」の記事で扱うテーマはそうした弱者の目線から”強者”や”権力者”、そして”生きづらい社会”に射程を置いた記事を実体験より縷々に書き連ねております。

 今回のブログの移行は学生時代より利用してきたはてなブログから、独自ドメインへの移行となります。独自ドメインへの移行に至った背景はまた別の機会に述べさせていただきたいと思います。なにはともあれ、はてなブログにて私の記事をお読みいただいた皆様には伏してお礼を申し上げたいと思います。

それでは以下のブログでまた皆様とお会いできることを指折り数えて心待ちにしております。

www.ogrenci.jp

 

2020年9月20日 Ogrenci

 

 

崩壊は我々が支持した

 

 時折どこからともなく秋を運んでくれる風によって、稲穂は少しづつ色付いていく。遠い彼方まで続く稲穂の波、伸びた畦道、そして丘や山々。日本に生まれたことの喜びを素直に感じる光景だ。蕎麦やパンなどを口にしていても、見事に育てられた稲穂には先祖帰りのような不思議な魅力が潜む。自然が作った美の造形が視界に迫る。

 棚田になると、その造形美をさらに追求したようにさえある。農民は代々、美を意識しながら小高い山の斜面をたんぼに作り変えて耕してきたのではないだろうに、なんと魅力的な構図だろうか。こうした棚田も減反政策によって放置されたり、また大型機械の導入で平坦で広いたんぼに姿を変えたりして、多くが消えた。

 稲作文化に尊ぶ私たちだったが、今や衰退の途にある。水田を守ったつもりが逆の現象になったのは、ひとえに政策のせいだろう。だが、それを指示したのは私たちであった。同時に、自動車など貿易外交の果てが稲作にも及んだ。稲作ばかりではなく、野菜、果物、そして酪農も同じ運命にある。国際化は大切だけれども、日本が日本であるために風土とか伝統の本来の意味を、きめ細かく一人一人の暮らしや食文化に向けて考えてみる時期にあるのではないだろうか。

 自立も哲学も計画性もない急速な近代化政策の一つが、棚田の石垣を崩したと言える。いつまでも公の下敷きのままではたまらない。大型機械の入らない広さが、高齢者にとっては身の丈に合っているのだという。これからの生き方の提言とも言えそうだ。

 

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不文律

 

 待ち構えてみる花火、もちろん結構だが、この季節乗り合わせた列車の窓の闇にふと大輪の花火が咲いてくれるのはもっといい。列車はたちまち通り過ぎふたたび窓にきれいな花火をみることはない。目じりに残った光の粉をいつくしみながら旅を続ける。ひと夏にそんな経験を重ねると幸運という言葉が身近なものに感じられてくる。

 遠花火を好んでいる。あるとき神宮の森の打ち上げ花火を見ようと、とあるホテルの屋上のラウンジに座っていたら、森のはるかかなた、関東平野を一つのたなごころとすればその真ん中辺のくぼみにあたるあたりから小さく小さく花火が、上がっているのに気づいた。神宮の花火は眼前を錦にいろどり闇が戻るとはるかな空に遠花火が音もなく幻のように咲くのであった。

 有名な両国川開きの大花火は1733年に始まった。その前年、イナゴが大発生して西日本の稲作はダウン、さらに悪疫が流行して死者が続出した。そのショックを乗り越え、失意を希望に変えるべく、江戸市民は実費で大花火打ち上げのイベントを立ち上げたのだという。私たちの花火好きは江戸以来つちかわれてきたものらしい。

 今年は一度しか花火を見ることができなかったが、来年もまたこの時期に期待したい。

得手に帆を揚げる

 

東大出身で聡明な友人が自分の人生を大切にするために外の音を断捨離しているらしい。思えば自分も外の音をできる限り消音にすべくSNSを止めた。一人暮らしが再開し待てど届かない冷蔵庫を垂涎していたけれど、気づけば冷蔵庫が無くとも生活できることを知った。腰が重い社会人を痛烈に非難していた学生時代、今となっては考慮すべき変数が増えて挑戦に退嬰的になるのは言い訳ではなくて責任だと知っている。

 生まれた瞬間から競争社会に投げ込まれ、我々は常に序列を付けられている。強者にとってはずいぶんと生きやすくなったが、弱者は漆身呑炭な想いで毎日を過ごしている。そうした社会のノイズをオフにして久しいが、非常に有意義な時間が流れている。ここまで自分は生き急いできたように思う。これからの生き方も含めて、ゆっくりと自分と見つめ直す時間を作りたい。

読者様へ

 

平素よりブログ「抵抗」をお読みいただきありがとうございます。当ブログの射程は「弱者からみた、強者への訴え」にあります。記事を書く際には、弱い者が感じる、痛み、歯痒さ、生きづらさ、矛盾、などを念頭に置きながらその対極に立つ「強者」への「抵抗」を意識して書いております。”小さな抵抗こそが希望になる”という言葉は私の母から頂いた言葉です。祖父母は朝鮮戦争を経験し日本に逃げ、日本で生まれた母親は人目を避けるように朝鮮学校に在籍しておりました。誰よりも教育に苦労した母親から育てられた私は、自ずと教育に興味を抱くようになりました。 

 さて、当ブログ抵抗の記事が100記事まで増えました。そこでぜひ読者様にお読みいただきたい記事を5つご紹介いたします。時間の都合上、概要の紹介は割愛させていただきます。

 

 

ogrenci.hatenablog.com

 

 

 

ogrenci.hatenablog.com

 

 

ogrenci.hatenablog.com

 

 

ogrenci.hatenablog.com

 

 

ogrenci.hatenablog.com

 

幼稚な文章をお読みいただきありがとうございます。

働かせる自由の拡大・働く自由の縮小

 

労働者の破壊が凄まじい勢いで進行している。この20年で労働者の生命と健康と生活を守るための規制や保護が、次々と撤廃された。その変化を一言で言えば、「働かせる自由」の拡大、「働く自由」の縮小である。

 企業は、正規雇用を非正規雇用に置き換え、労働条件を切り下げ、労働者をモノのように転売し、文句を言う者は切り捨てた。「働く自由」の縮小は「人権」の縮小に他ならない。働くことは、個人や家族の生計を立てるためだけではない。働くことによって、人は他者と関わり、社会に参加する。だからこそ、働くことは喜びであり、自己を支える誇りとなる。喜びと誇りからモラルが生まれ、責任意識が生まれる。

 奴隷労働には喜びも誇りもない。日本社会からモラルや責任意識が薄くなったのは。、労働のあり方と深く関わっている。貧困と無権利状態の中で、時間を切り売りせざる得ない末端の非正規労働者たちは、まるで「現代の奴隷」ではないか。こうした働き方の蔓延は、民主主義を衰退させ、社会を脆弱にし、危険を増大させる。全雇用者に占める非正規雇用者の割合は高くなるばかりである。この恐ろしいほどの変化が社会を変えない筈がない。

 こうした労働・人権破壊を、「多様な働き方」「雇用の流動化」などと正当化し、旗を振って実現させてきたのが経済界である。一時期、経団連のビジョンは「行き過ぎた規制、介入は雇用機会を縮小させ、再チャレンジの障害になる」とあった。一体、どこに「行き過ぎた規制、介入」があるというのか。格差社会少子化について、このビジョンは憂えてみせる。しかし、それらをもたらしたのが、まさに自分たちが進めた労働破壊であることには一言もない。

 仕事がなかったり、働いても生活ができないワーキングプアが、どうして家族を持てるのか。どうして子どもを育てられるのか。頻々と報道される家族の中の虐待や暴力の陰に貧困の問題が指摘される。先進国における出生率の上昇には、適正な労働時間、雇用機会の均等、家庭内役割分担の柔軟性、社会の安全・安心ど、若者の自立可能性などといった指摘の改善が必要とされる。その多くが働き方に関わるものであり、経済界がなしうることは多い。何より人権と生活できる賃金を保障し、若者が将来設計できるあ安定した職場を作ることだ。

 それこそ経済界の担う社会的責任というものであろう。それをやらずに、「地域の連帯」だの「家族の絆」だの、企業が介入すべきでないところで虚言を発するのは、無責任というべきである。経済界は日本を戦争に引きずり込みたいのか。もしそうなら、経済界は「憲法の敵」「平和な社会の敵」である。

 

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オワコン

数日前、ある国連職員の方のポストが廃止されることが決まったという投稿を目にしました。まあそんなことはこの業界ではこれまでも多々起きていたことだと驚きはしませんでしたが、時を同じく、その方の職位を知り、私は呆然としました。国連機関の様相が変容してきていることは既に耳目を集めるまでになっていましたが、その変容の速度は私の想像を遥かに越える速さであり、あらゆる業界人の予測が発せられた瞬間に古色蒼然となっていきます。コロナは我々の生活のあり方を大きく変えました。それは国連機関の中も同じです。当たり前の日常が突如失われ、終わりの見えない非日常が新しい現実となるのです。

 コロナがもたらした影響は甚大でした。国連機関に限ってその影響を述べると、まずJPOが例年と比べ明らかに採用人数に制限を設けていることが挙げられます。結論から有り体に言うと、若手が入る余地は著しく狭まりました。①相当TORにマッチした、②豊富な経験を持ち、③即戦力として貢献できる、人材というのが採用の前提となり、別言すると、もともと限られていたポテンシャル採用の要素が完全に消えてしまったと言っても過言ではないのです。

 目に見える変化としては、コロナをきっかけに自主的に業界を去る人が出てきたことも挙げられます。「祖国の家族が心配だから」といって契約半ばで契約を切って祖国に帰ったスタッフを知っていますし、コロナが背中を押す形でキャリアを180度変えて新天地に飛び込む決断をした知り合いもいます。

 そこでふと考えるわけです。「国連機関でしかできないことってなんだろうか」と。私は国連機関でしかできないことなんてないと思います。しかし、国際協力に携わろうとした場合、国連機関とJICAを除くと他での勤務は薄給となるので、ほとんどの方がここを目指そうとするのです。私としては、国際協力に携わる方法が多様化してきているので、いろんな選択肢を持ってキャリアを見据えることをオススメします。むしろ、国連機関に入ること自体、私はオススメできません。民間に転職して転用できる知識やスキルも限られていますし、特定のスキルを習得することも難しいので転職の際に苦労することになります。雇用も安定しないですし、残存するためには政治的な要素が多く付き纏ってきます。特に、長くこの業界にいてしまうと、他で潰しが効かなくなるのでむしろリスクが高くなります。

 

再考

 

 

風鈴の音

 

風鈴の音が、いかにも涼しげなメロディーを奏でる。水を打った庭先からひんやりとした空気が気持ちいい。隅に置かれたうちわを手にして、ゆらゆらと動かしながら遠くに視線を送る。

 日本の夏の古典的な光景だろうが、今の都会ではもうほとんど見かけない。こうした暮らしを拒否し、一丸となってモダンな生活を求めて突き進んできたのだから当たり前なのかもしれない。けれど、モダンといってもあまり分からないから、結局、隣の人たちを真似した。あっちを向いたり、こっちを向いたり、流行を追ったり、捨てたり、揺れに揺られながらもモダンな暮らしを追求した。そして、実現ができた。だから満たされたはずである。なのに、裏切られたような不甲斐さが漂う。

 なぜなのだろうかと、ふと考える。地に足をつけてこなかったからなのではないだろうか、と。このことは口では容易いけれど、現実にはなかなか難しい。心が座っていなければ、周囲の言動に惑わされて自分の考えが定まらなくなる。感情任せに揺れていては、自信も持てないし責任感も沸いてこない。いつも、誰かが、何かが、羨ましい。

 生活は派手になったが、内面の問題は置き去りにされ続けてきた。外側の包装を見栄え良くすることで、ごまかしながら突っ走ってきたようなものだ。心の奥を問わないまま、自分を騙し、暗示にかけながら、数十年間を過ごした。そしてその附けは、次世代に色濃く現れている。

 地に足のつかない親や大人に育てられたのだから、当然かもしれない。けれど、彼らもまた確実に親や大人になっていくのである。

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無菌状態は健全ではない

 

子どもの頃、葡萄のぷりぷりとした小粒の実をいくつもほおばっては、もぐもぐと動かして実と種を取り分けた。甘酸っぱさが広がり爽やかな気分になりながら、空に向かってピッピッとザラついた種を飛ばす。あの開放感は、そういえば最近はほとんど味わっていない。品種改良が進んだせいもあろう。そればかりではない。サッシの窓や衛生管理といった「近代的な暮らし」には、ピッピッの空間はなくなった。

 何もかもが整備され管理され、無駄が省かれる社会が良しとされて久しい。深く考えるほどのことではないから、多くの人たちが流されてきた。けれど、ふと気がつくと、子どもたちは地べたにしゃがみ、ボロ・スタイルにブス化粧。恥はといえば「自由じゃん」に塗り替える。親たちは我が子でも感情のままに殴って「躾だ」と主張し、幼児を高温の車内に閉じ込めた事も忘れて冷房の部屋でパチンコや漫画に興じる。

 社会は狂っている・・・のだが、そうした事態に最も憂えているのは、実は、子ども自身でもある。たとえば、広島原爆の日には子どもたちの提言や積極的な行動が目立った。中学・高校生が創った「世界の子どもたちの平和像」が除幕され、「被爆者の話を聞いて恐かった」「戦争は子どもの笑顔も夢をも潰してしまう」などのたくさんの声が上がった。そして式典では「人々のたくましさをもっと深く学び、語り継ぎ、伝え続けていきます」と、小学生の代表が平和を誓った。長崎でも中学生による反核の発信が行われている。

 子どもの受難の世紀にしないために、半世紀以上も前に立ち返って、あの頃の感性を思い起こしたい。

 

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近況報告

 

こんにちは。8月からキャリア転換、そしてそれに伴い自分の中の優先順位を見直すことにしました。下記、ご報告まで。

 

1. SNSを止めました。

 

アカウントも既に削除しております。お世話になった方々、本当にありがとうございました。この決断に至った理由はいくつかございます。最大の理由としては、SNSの存在が自己研鑽の弊害と感じたことにあります。情報量は非常に多い一方で、実際に自分が必要としている情報は限定的であり、限られた情報にアクセスするために、不要/誤謬な情報を掻き分けなければならないことにコスパの悪さを感じてしまいました。2つ目の理由としては、SNSを利用していると、私の場合は視野が狭くなってしまう気がしたことにあります。たまにSNSを利用している方が「社会の8割は院卒で、6割が旧帝一工早慶卒で、3割が博士、みたいな錯覚に陥る」と仰っていますが、少なくとも私はそうした錯覚を覚えはじめました。そうした社会は当然フィクションなのですが、ずっとその中にいるとリアルとフィクションの識別ができなってしまうのではと考えました。3つ目は、時間です。20代は今後の長いキャリアの中でも非常に重要な時期だと思います。長く続いた学生生活が終わり、社会人になって勉強の時間が確実に減ったことに焦りを感じました。自由に使える時間が減った分、使用できる時間を最大限に使用して、仕事の勉強と趣味の勉強の両方を頑張ろうと思いました。小さな国際開発研究会の運営に関しましては引き続き可能な範囲で精力を尽くす次第です。

 

2. キャリアについて

 

 転職をしました。転職に至った背景は既に述べてきましたが、自分自身の成長に適した環境ではなかったことが最大の理由です。そして、リスクを負える年齢でもあります。Now or Neverだと感じました。新天地では新しい仲間たちに叩き上げられつつ、微力ではありますが私も何かしら所属先に貢献していきたいと考えています。なお、国際機関に関する発言は、私はもう関係者でもなんでもなくなるので、少なくともPublicな場では控えます。最後として、これから国際機関を目指す方たちに向けて1万字程度で記事を書く予定です。

 

3. ブログ「抵抗」について

 

 高校時代から始めたブログ「抵抗」はGoogleブログから始まりました。その後、Hatenaに乗り換えることになるのですが、修士1年の時にそのアカウントが消えてしまいました。そこから第3世代として今のアカウントがあります。一年半で約100記事を書きました。これまでも記事の投稿は不定期でしたが、今後も不定期に続けていきます。ただ投稿の頻度は少なくなると思われます。

 

4. 今後の連絡先について

 

 研究会への質問は、専用TwitterもしくはHPよりお願い申し上げます。私個人へのお問い合わせは、ogrenci0401@gmail.comにご連絡をいただくか、研究会のメンバーであればSlackにていつでもご連絡くださいませ。

 

 

 

 

令和は輝ける社会に

 

 海外から日本に戻ると、言いようのない違和感を覚えはじめてかれこれ数ヶ月になろうか。その度ごとに、一体何がこれほどいらいらさせるのだろうかと長い間、モヤモヤしてきた。やがて、私たちの顔、その表情ではないかと思い始めた。

 日本人は、豊かな表情をどこかへ忘れてきてしまったかのようだ。とろんとした目、締りのない口もと、緊張感の薄れた頬、。母親いわく、日本人はもっと生きいきとしていたという。キリッとした顔は、他の国の人々の決して劣るものではなかった。かつては、振り返りたくなるような人たちが大勢いたように思う。内面的な活力が静かながらも力強く発散され、キラキラと輝き、引き締まった表情で行き交わった。こうした凜然とした人に、いくらでも巡り合えたという。

 気がつくと、日本人には未だに蔑む人もいるアジアの人びとの方に、よほど素敵な笑顔がある。質素で古びた衣装を着ていても、表情の輝きは私たち以上である。多分、彼らには夢を描ける社会があるのではないか。スラムなどに暮らす人々も、目先の生活苦をものともしないエネルギーを内側に抱く。人々は背筋を伸ばし、将来への可能性を大きく広げる。そうした姿が子どもたちにも希望を与えたのだろう。

 だが昨今の私たちの社会は、ことなかれ主義が蔓延り、利己主義や無責任が蔓延している。子どもたちの表情は合わせ鏡のように鬱々とし、子ども本来のあの輝きがほとんど見られない。これは、大人ひとりひとりの責任だし社会の大問題だろう。消えかけている凛々しい姿を取り戻し、令和は子どもたちが輝ける社会にしたいものだ。

 

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私はヌジューム、10歳で離婚した

2019年3月16〜5月上旬、児童婚をテーマにした映画「私はヌジューム、10歳で離婚した」が東京・名古屋・兵庫で上映された。物語は中東のイエメン、10歳の少女ヌジュームは1人で裁判所に駆け込み、離婚をしたいと訴える。この作品は、2008年にイエメンで実際に起きた話がモデルとなっている。「児童婚は祝福のもとで行われるレイプである」、映画の監督であり、自身も児童婚を経験したアル=サラーミー氏はそう訴えた。

 2019年UNICEFの報告によると、世界中の若い女性のうち、21%の女性は児童婚を経験している。世界では6億5000万人もの現存する女性が18歳未満で結婚をし、1200万人もの女性が毎年児童婚を強いられている。これは驚くべき数字であろうか。それとも、事態を知る者にとっては驚くに値しないのであろうか。未だ多くの児童婚が水面下で行われている現状に鑑みると、「実際はそれ以上」とする声も多い。多少なりとも児童婚の問題に足を踏み入れた立場からしてみれば、どちらの数字が正しいとか、間違っているということではないと思う。この数字は仮に1人であったとしても、あってはならない数字なのである。

 修論のために訪れたバングラデシュ。現地調査3日目、この数字を中学生に見せる機会があった。女子生徒の1人が「私は結婚相手を自分で決めたいな」と力なく言い、一瞬学生間で笑いが漏れたが、その刹那そこにいたみんなが真顔になった。

 トルコに移住するシリア難民や、迫害されバングラデシュで生活を送るロヒンギャ の人々の間で、いま、児童婚の発生率が顕著に増加してきている。個々の、凄絶としか言いようのない体験を相対化することはできないし、安易な類似化はまた別の危険性を孕むだろう。しかし、児童婚を強いられる女性たちの不安は既に臨界点に達している。

 レミングの群れが断崖もしくは湖水などに突き進んで自殺するということは迷信に過ぎないが、不合理性ゆえに嘆く自分の姿が目に見えていたとしても、方向転換が許されず、あたかも慣性の法則に支配されているかのように粛々と絶望に向かって進行していく女性たちの悲劇を、この国は「慣習」の一言で覆い隠してきた。批判や警告、別の選択肢を示す声が存在してこなかったわけではない。児童婚の根絶を訴える民意の声は、慣習の一言によって尽く壊死させられてきたのである。

 いま、バングラデシュでは燎原の火の如く多様性が浸透しつつある。それは国際化であり、テクノロジーの進化であり、また、人と人との繋がりでもある。これまで空気のように当たり前に与えられてきた「児童婚」という選択肢は、その濃度を軽薄化しつつある。そのことを象徴するかのように、それぞれの家庭が少しずつ娘に児童婚をさせることに躊躇いを抱きはじめている。だが、時に娘の児童婚なくして、家族は生活を送れなくなってしまう。自分と血の繋がった娘のことを思えば、愛情もあるし、かといって永劫この生活はきついと考え、その薄情な感情を持つ自身に苛立って毎日を過ごしている。

 要するに、両親は皆、外野から指摘されるよりもずっと前に、娘に児童婚をさせることに罪悪感を抱いているのだ。だからこそ、あらゆる解決策を考えては娘に教育を続けてほしいと切望している。児童婚が未だに残存する今日においても、メディアでの扱いがそれを感じさせないのは、当事者の家庭がそもそも複雑だからである。児童婚は人権侵害である、という声の前提にもし(バングラデシュなら仕方がない)という括弧がつくとしたら、今後も相変わらず多くのことが隠され、論理がすり替えられ、視野広い議論に繋がることはないだろう。

 児童婚が「名誉」だという位置付けの真偽については読者の判断に委ねさせていただくが、人の人生の価値は、生まれ落ちた地や性別によって截然と決められるべきではないということを今後もこのブログを通して繰り返し主張していきたい。

 

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構造的暴力

 

平和な世界とはどういうものなのだろうか。戦争がない世界と考えたとしても、現代の世界には貧困や人権侵害などが様々な国で存在し、それは先進国でも例外ではない。社会的構造が貧困や環境問題を生み、人間が本来持っている寿命や可能性などを阻害することを平和学者のガルトゥングは構造的暴力と呼んだが、同時に、戦争がなくても構造的暴力がある状態を消極的平和と呼んだ。

 最初の問いへの最終的な回答は、構造的暴力もない「積極的平和」というものには違いない。しかし、それはどのように築いていけばよいのだろうか。

 現実の世界ではそれはただの夢物語でしかなく、アメリカはイラクを攻撃し、国連の地位は地に堕ちた。また、ILOとUNICEFが公開した報告書では、世界で子どもの5人に1人が極度の貧困の中におり、1日1.9ドル以下で暮らしていることが伝えられた。世界富豪トップ8人の資産が、下位の36億人分という報告もされ、これを構造的暴力と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。

 近年では環境と平和を両軸に考える機会が増えてきている。なぜなら、環境問題の一つの問題として捉えていては解決を妨げ、貧困や児童労働、経済システムなど様々な問題と関連性を持つものが、現在の地球的な問題となっているからに他ならない。そこで考えたのは人間のつながり、つまり人間の相互依存性である。人間が基本的に必要なものは衣食住であり、例えば日本はそれにどう関わっているのか。食料自給率は低いので外国から大量に輸入し、住宅に使う木材も衣服も同様である。そこから私たちの豊かな生活は成り立っていることは忘れてはならない。

 結局、積極的平和を築くための最も基本的な方法は、個人の意識のありようである。人間としての立場を理解し、相互依存性を生活の中で理解していくことが非常に重要なことだと思う。

 そしてそのプロセスを作るのは教育である。現代の日本の教育システムは学校が受験のための教育機関となり、思考能力を育てる教育をしていない。教育によって思考能力を発達させることは「子どもの権利条約」第二九条で明確に目指されているはずではなかったか。

 私たちは皆つながりあい、お互いに支え合っていることに気づかなければならない。そこから積極的平和を築くための可能性が生まれ、現実の問題を打破していくことにつながるのである。それは人間が共生することの意義でもあるだろう。

 

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二つの奇跡

 

 「橋の所には、人がいっぱい死んでいました。真っ黒に焦げて死んでいるもの、ガラスのかけらがからだにいっぱい刺さって死んでいるもの、いろいろいました」「川縁には死体がそこら中にごろごろしていた。その中にはまだ死んでいない者もあり、『お母さーん。お母さーん』と叫んでいる子供もいた」(『原爆の子』岩波文庫)。

 1945年夏、日本は米国にとって、まさに「悪の中軸」であった。広島は大陸侵略の拠点であり、第二層軍司令部を置く「軍都」だったが、8月6日朝、無警告で投下された原子爆弾が壊滅させたのは、兵営や軍需工場だけではなかった。それは圧倒的に、普通の人々ーー多くの子ども、女性、老人を含むーーの日常を、文字通りに焼き尽くしたのだった。

 大きな都市が二つ、丸ごと灰燼に帰した凄まじい惨害。世代による濃淡はあるかもしれないが、戦後の日本人は、この地獄の光景に、映像で、小説で、芝居で、アニメで、繰り返し接してきた。いわば、「国民的記憶」になったとさえ言えるだろう。

 初めからそうだったわけではない、当初、日本を占領した米国は、原爆の被害実態を明らかにすることを禁じ、平和集会の開催さえ禁止した。米国への「恨み」を日本人に持たせないためという。1952年、占領は終わったが、同時に米国と同盟を結び、その「核の傘」に入ることを選択した日本政府は、原爆被害の実態を究明・記録し、被爆者を援護することに積極的であったとはいえない。むしろ記憶を抑圧し、妨害し、忘却を望んでいたのである。

 そうした力に抗して、半世紀の間、原爆の惨害を語り続け、記録し続け、記憶し続けたのは、民衆であった。それは、怒り、嘆きからだけではない。強い後悔の念(なぜこんな戦争をしてしまったのか)とも繋がっていた。井伏鱒二「黒い雨」には、被曝直後の広島を歩き回った主人公が、延々と続く死者の群の中で突然怒りに襲われる場面がある。

 「『許せないぞ。何が壮観だ。何がわが友だ』僕は、はっきり口に出して云った。(略)戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」。

 反戦思想というより厭戦感情。しかしここには、民衆の正直な、だからこそ強い、戦後日本を貫くコア(核心)のようなものがあるのではないか。

 日本の民衆の、原爆と戦争に対することの記憶と感情があったからこそ、米国は朝鮮、ベトナムでの戦争で核を使用することを思いとどまったのだし、60年代まで、日本の核武装を検討していた日本の政治家も、ついに諦めざるを得なかったものだ。

 無力感とお上意識を脱却できなかったかにみえる日本の民衆の、この強さが第一の奇跡だとすれば、第二の奇跡は、日本民衆のその激しい感情が決して「報復」に向かわなかったことだ。「国家の安全」ではなく、「人類の尊厳と生存」が、そこには表現されている。

 

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